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ゲンロン大森望SF創作講座第四期:最終課題実作感想②

 僕、遠野よあけはゲンロン大森望SF創作講座という小説スクールに通っていまして、つい先日、最終課題実作(120枚程度)の作品を提出しました。
 この記事では、そこで提出された作品への感想をつらつらと書いていきます。詳しい情報は下記サイトにて。

「ゲンロン大森望SF創作講座」
https://school.genron.co.jp/sf/

「最終課題提出作品一覧」
テーマなどの指定はなし
(各作品は50~120枚程度)
https://school.genron.co.jp/works/sf/2019/subjects/11/

以下、この記事では9作品について感想を書いています。
感想の順番は適当です。
感想冒頭で、作品の簡単なあらすじを書いておきます。
また、感想ではネタバレにもふれていますのでご注意ください。

10「鏡の盾」渡邉清文

https://school.genron.co.jp/works/sf/2019/students/kiyo/4148/

 ――ルーブル美術館を訪れた二人の来訪者。「ミロのヴィーナス」を見つめるふたりの間に言葉はない。――物語は神話の時代にまで遡る。オリュンポスの神々によって呪われた姿に変えられ、遠い地へと流刑に処された三人の姉妹。彼女たちはゴルゴン三姉妹と呼ばれ、目の合った者を石に変える力を持っていた。末の妹メデゥーサが、水面や鏡に映る美しい自分の姿しか見ることのない少年ナルシスと出会ったことをきっかけとして、人界と神界を巻き込んだ壮大な神々の戦いが始まっていく……

 Twitterでも感想会でも伝えたのですが、僕は遠い過去や海外を舞台とした小説世界には入り込みづらく、登場人物が多いこともあって初読時はいろいろよくわからなかったのですが、再読してみると文章や世界観に慣れてきたのか、面白く読むことができました。
 それでもわからなかったところは、誰がどの陣営なのかが中盤以降わからず、小説の最初に陣営別人物表があったらうれしいなと思いました。感想会でもらったエーゲ海の地図もやっぱりあると読みやすくなりますね。あと、再読してみたら、後半で「ネットワーク」や「スキャン」という言葉が出てくるのは違和感ありました。やはりこの語彙がなぜこの世界にあるのかのエクスキューズは必要そうです。言葉を置き換えるか、あるいはヘファイストスが鏡を作ったときに「これは僕の開発した×××という理論で動いている」とかそういうのがあると、「スキャン」とか出てきても「ああ、ヘファイストスの考えた用語なのかな」と思えたような気がします。
 神々の戦いということで、人類のほとんど(?)を巻き込んだ戦いというのもスケールが大きくて面白かったです。あと神話の語り直しというモチーフは、読むのに慣れてくると面白いですね。少し思ったのですが、SF創作講座で渡邉さんが書いてきた作品は、「語り直し」っぽいものが多かったのかもという気がしました。つまり過去のSF作品のアイデアを組み合わせてお話を作っている、みたいな。たぶん渡邉さんも自覚的なことだと思うのですが。「〈死の王・アンブローズ〉雪原の魔界」は王道ファンタジーにSF解釈を入れた作品ですが、「鏡の盾」も基本的には同じ手法が使われていると感じました。ふたつの違いは、どのくらい参照元のイメージから遠く離れていけたか、新しいイメージを読者に提示できているか、という部分で、前者はあまりうまくいってないと感じましたが、後者の「鏡の盾」は新しいイメージを読者に提示できていると感じます。「本来は出会わなかった二人が出会う物語」という意味では、今期講座の榛見あきる「無何有の位」を思い出しましたが、「鏡の盾」のほうが「あり得ない出会い」が物語を遠くまで運んでいる感じがしてよかったと思いました(枚数の違いの差というのもあるのですが)。
 それから、「本来は出会わなかった二人」が、出会ったあとも「互いを見つめ合わない」まま話が進み、二人が「見つめ合う」ことで物語が閉じていくというのも上手いなと思いました。現代パートで、メデゥーサが「ミロのヴィーナス」などを見つめる眼差しは、過去の神話世界に向かっているわけですが、これはこの作品の構造(神話の語り直し)と重なっていて面白いです。
 また作品外ですが、アピール文にて渡邉さんが「毎月の課題を提出していくことで、自分の書けるもの、書きたいことが見えてきたと思います」と書いていることが、物語のカタルシスと響き合っているのも、一年間作品を追っていた読者としては感慨深い気持ちになりました(渡邉さんはナルシスだったんですね!)。

11「蒼子」藤田青

https://school.genron.co.jp/works/sf/2019/students/seido/4185/

 ――「わたし」が蒼子と出会ったのは三月の出来事だった。自分とはまったく生き方の違う蒼子との同居生活。世界的に広がる感染症。シリアの内戦での記憶。非日常を感じさせるそれらが、「わたし」の生活と心に些細で大きな影響を与えていく……

 コロナ禍の街を描いた小説で、緊急事態宣言は作中で扱われていないことなどから、おそらく執筆時期が三月頃だったのかと思うのですが、当時にしか書けない小説だと感じました。コロナ禍の状況は月単位どころか、週単位でも大きく変化していくので、2020年のリアルタイム性というものは非常にモザイク的な記憶にならざるをえないのだろうな、ということを思わされたのも面白かったです。再読しても興味深かったし、一年後、十年後に読んでもまた印象が変わりそうです。
 主人公の「わたし」は写真家で、デジタルカメラよりもフィルムカメラのほうが悪環境に強いことを推している。「わたし」にとってはカメラというものは日常的な環境ではなく、非日常的な環境で使うものだという意識が窺えます。つまり「わたし」の撮りたいものは非日常側にある。けれど、シリアの内戦で空爆を経験した「わたし」は非日常に対して距離を置きたいとも考えている。そんな「わたし」の生活に、感染症の危険と、蒼子という変わり者がやってくることで、彼女の内心の写真への熱が刺激されていく。そのようなお話に読めました。
 コロナ禍の写真作品というのを、僕は寡聞にしてよく知らないのですが(ネットではソーシャルディスタンスを映した写真はよく目にするけれど、それは果たしてコロナ禍における写真作品として良い物なのかわからない)、ウィルスによる感染症というつかみどころのない現実を、写真はどう記録すればいいのか。そうした写真芸術における葛藤が、この小説の原動力になっているようにも感じられました(作者の考えがそうだった、というのとは別の話です。小説にそう書かれているから、そう読める、という話です)。
 あと小説の細部としてよかったなと思うのは、街の描写がけっこう描かれているところです。感想会では、主人公たちのマスクなど感染症対策への意識について現在のリアリティから見ると違和感がある、という意見もありましたけど、その意見こそ、2020年のモザイク状のリアリティを現しているように思いました。
 クライマックスのシーンは、それまでの文章に比べると駆け足というか、読者に対してやや不親切のように思いました。小説の文章は、意味が通じるようにつなげるだけでなく、読者の意識が自然に流れるようにつなげていったほうが良いと思います(その場にいない、という事実を読者に伝わりにくくすることが、本当に効果的だったのか?など。たぶん疑似的にその場に蒼子とともにいる、みたいな意味の表現だったと思うのですが(主人公は戦場に戻りたくないけど戻りたい、というジレンマ)、それを伝えるための表現を幾つかの方法から適切なものを選ぶ、などが必要だったのかなと思いました)

12「限りない旋律」中野伶理

https://school.genron.co.jp/works/sf/2019/students/msx001/4174/

 ――AIによる治療補助や治療計画を導入している脳聴統合医療研究センター。患者のひとり御堂リヒトは、統括AIミナと音楽を通じた交流ですこしずつ精神を回復させていく。しかし回復後の彼は、ミナとの音楽の交流を失ってしまったことに強い執着を感じ始め……

 主人公リヒトは、回復後に失われた「不全状態ゆえに手に入れたもの(ミナとの音楽を通じた交流)」を取り戻したいという動機を持ち、他方で統括AIミナは「不全状態のリヒトが作る音楽」を欲し、リヒトが再び不全状態に陥るように計画を巡らせる、というプロットがとても面白かったです。また、カウンセラーのオルガを始めとした人間にとっては音楽に思えない音の連なりが、AIであるミナには価値ある音楽的芸術として認識されているという設定も好きです。人間の芸術的ポテンシャルについて、人間よりもAIのほうが強い信頼を持っている、正当に評価している、ということにも見えて、人間とAIの関係や、両者の能力の方向性について考えさせられます。
 また、後半の読みどころは、リヒトが自分自身のできる範囲で自身を不全状態に戻すための手術計画を立てるくだりだと思いますが、この辺はきちんと科学的見地や芸術家のエピソードなどを交えてリアリティを担保しているところは上手いなと思いました。個人的にこの辺にSFみを感じました。(作中で扱われている知識に明るくないので、現実の情報がどのくらい使われているのかとかは読み取れないのですが、少なくとも僕のような読者に疑問を与えない程度には上手く書けていたと思います)
 ただ、治療施設の統括AIが、独自の思惑で患者を不全状態に戻す計画を遂行するというのは、現実的にはAIに対するフェイルセーフが働いていないように思えるので、そういう解釈を与える隙はないほうが良い気がします。つまりそういう解釈は「AIの暴走」というモチーフを導いてしまうのですが、このモチーフで読まれることは本作にとってはあまり良い効果を生まない気がするからです。(一応、治療施設は研究目的も兼ねているため、ミナの単独の計画ではなく、研究サイドの職員たちはミナがやっていることを把握しコントロールしている、と読めるので大きな瑕疵にはなってないとは思います)
 あと感想会で、この書き出しは本編と合ってないように感じる(書き出しの文章自体は悪いってわけじゃないですが)と言ったのですが、個人的にはこの書き出しは書き直したほうがいいような気がしました。あくまで個人的なスタンスなのですが、僕は書き直す際に「自分が気に入っている」という理由で文章を残すのを避ける派なので。「自分が気に入っている」というのは、書き進める上ではとても強い力になるのですが、いざ読者が読む際にはあまり力を持たないので、なるべく自分の好悪とか関係なく読者に効果的に働く文章に置き換えたい、と思っています。この辺、書き手や作品によって正着手は異なると思うので、一意見として参考にして頂ければ。

13「開化の空を飛びましょう」甘木零

https://school.genron.co.jp/works/sf/2019/students/brightsideoflife/4087/

 ――明治三十年代。女学校に通うミハルと鮎のふたりは、新世紀の時代の空気を浴びながら学生生活を謳歌していた。しかし、そんな日々のなかに、土蜘蛛と呼ばれる怪物の影が現れ……

 とてもワクワクしながら読み進めました。僕のなかの中学生の僕が大喜びです。とはいえ大森さんがTwitterで書いていた通り、終盤の失速は残念でした。
 甘木さんは物語の面白さの勘所をとてもよく知っているという印象があって、その持ち味が存分に発揮されている作品だと思います。でも、これは僕の想像ですが、それを上手く制御できていないような印象もあります。感想会で、考えていた内容を十分に書き切れなかった、ということを仰っていましたが、それはもしかしたら字数制限の問題ではなく、甘木さんが自分の書く小説の「枠」を上手く設定できていないのかな、という気がします。やはりひとつの小説に書きたいことをすべて書き込むというのは、往々にして不可能なので(それができる幸福な機会というのは稀だと思います)、きちんと「今回はこの枠のなかで書き切る」という意識が必要になってくるのかな、と。その「枠」というのは媒体であったり、字数制限であったり、想定読者であったりします。つまりは、自分以外の存在や環境です。自分を喜ばせる小説と、読者を喜ばせる小説はやはり違う。読者を喜ばせるために、自分の技術のどれとどれを使って、頭のなかにある物語のどれを書いてどれを切り捨てるか、といったことを上手くやると、甘木さんの作品の完成度はずっと上がるような気がします(自分のために書かない、という話ではなく、要はバランスの問題です)。具体的には、新人賞などに送るときは、応募する賞のレーベルの読者層を意識して(その読者層を喜ばせるつもりで)書くことがいいんじゃないかと思います。
 とはいえ、根本的に僕よりも小説技術の上手い甘木さんにこんなことを書くのはさすがに気が引けているのですが、今後の甘木さんの創作の一助になればと思い僭越ながらこのような感想を書かせて頂きました。
 このシリーズ(僕はこっそり「農商務省害獣課シリーズ」と呼んでいます)の他の作品も読んでみたいし、前回や今回のリライトも読んでみたいです。明治時代という、僕の人生から遠い舞台の物語なのに楽しく読める小説というのはなかなか出会えないので、そういった意味でも関心が強いです。もし商業媒体とかでこの小説を読むなら、少年少女が読むようなレーベルがいいなとも思いました。感想会でも言いましたが、例えば集英社のみらい文庫などですね。
 これからも甘木さんの面白い小説が読めたらと思います。

14「デスブンキ ヌーフのダム」九きゅあ

https://school.genron.co.jp/works/sf/2019/students/kyua/4160/

 ――特殊な能力をもったフォーカーと呼ばれる人間の死によって、世界が分岐する現象デスブンキ。デスブンキの知識を得た「俺」は、仲間とともに分岐した世界へと移動していき、紀元前の巨大ダムへとたどり着く。そして、ダムの管理者ノアと出会う……

 きゅあさんの小説は書かれるごとに面白くなるし、出来もよくなっていくので、一年間継続して読んでいくのが楽しかったです。特に「デスブンキ」は、現実の出来事を抽象化して物語に落とし込みつつ、きゅあさんがずっと書き続けているゲーム的なギミックでそれを表現しようとしているのが感じられました。これまでで最も壮大な世界観の物語のように感じられましたし、きゅあさんの書きたいもののひとつはこういうお話なのか、とわかったような気がします。
 他方で、小説的技術や、物語の作り方はうまく行ってない部分が多く、読み進めるのはなかなかつらかったです。読んでいる間よりも、読み終えてから思い返してみると面白いと感じられたように思います。情報の順番を整理したり、不要なエピソードを省いたり、読者が理解しやすいエピソードや表現を意識して書くとぐっと良くなるような気がします(具体的にここやここ、と指摘する余裕がなくて申し訳ないのですが…)。
「継承」というテーマについては、それを物語に落とし込むことは意義のあることだと個人的には思いました。また、きゅあさんが意識していたかはわかりませんが、僕はこの物語を読み終えた後でソーシャルゲームを想起しました。ソーシャルゲームは、割と延々と遊べてしまうジャンルで、かつユーザが延々と遊んでくれないとサービスが継続できないわけですが、その反面、サービスが終了してしまうと作品やゲーム体験を「継承」していくことがとても難しいジャンルでもあります。そうして連想が働くという意味で、きゅあさんがよく書かれるゲーム的なルールのある世界観と、この「継承」というテーマは合わせて書くことに意味があると感じました。
 読者にわかりやすく伝わる(あるいはわかりにくくても読者がぐいぐい読んでしまう)ような書き方や技術を身につけた上で、このくらいのスケールの物語を書いたら、とても面白い作品が出来上がるような気がします(きゅあさんの場合、描き方や技術は、誰か信頼できそうな人に直接添削してもらうなどの方法が、習得がもっとも手っ取り早いように思います)
 あとこれは小説の内容からだいぶ離れてしましますが、コロナ禍で企業やイベントが大打撃を受け手、コロナ禍以降に文化がうまく継承できるのか?という懸念が問題視されている昨今において、「継承」について考えるお話というのはアクチュアルな内容だとも思いました。

15「ここもあちらも粘る闇」一徳元就

https://school.genron.co.jp/works/sf/2019/students/tygennari/4197/

 これはちょっとよくわからなかったです。すみません。

16「粘菌の原」宿禰

https://school.genron.co.jp/works/sf/2019/students/sukune61/4191/

 ――粘菌に地表を包まれた、宇宙のどこかにある惑星。そこでは、地球からやって来た宇宙船内で造られた人工生命たちが生活していた。あるとき、彼らのうちのひとりがVRゲームのなかで見知らぬ「男」の声を聞き……

 とある粘菌の惑星で、ゆっくりと滅びゆくような生活を続ける人工生命たち(で合ってますよね?)の感情のやりとりが描かれている小説。母星である地球に興味をもつ者や、地球を嫌悪する者がいて、彼女たちの感情や言動の差異が読んでいて面白かったです。突き放すような地球人(?)たちのラストでの行動も、過剰にならない程度に書かれていて嫌味がなかったです。短編SFとして面白く読めて、逆にそれ以上の何かがないところが物足りないと言えば物足りないのですが。
 冒頭やラストの粘菌とともにある風景はイメージが浮かびやすくて楽しめました。

17「蘇る悪夢」夢想真

https://school.genron.co.jp/works/sf/2019/students/dreamshin/4189/

 ――子供の頃から夢を見ていないアキオは、ある夜から同じ夢を見るようになる。夢のなかの暗闇に何かがいるような違和感、そして日常のなかでも謎の黒い影を見かけるようになる。夢を見るようになった夜に何かがあったのかもしれないと疑問に思うアキオの前に、富樫という刑事が現れ……

 夢というもののコントロール不可能性が怖い印象を持たせていて、登場人物たちのままならない感じは面白く読めました。他方で、夢を扱うならもう少し生理的恐怖や、無意識的恐怖を演出したほうがそれらしくなったようにも思います。
 全体としては、悪夢についての掌編が三つ並んだ怪奇小説なのですが、三つの話の関連性がうまく機能していないのは勿体ない気がしました。おそらく三つの話は繋がっているのですが、だとすると「悪夢その一」にでてくる「夢帽子」や「救済者」の出自が謎過ぎるように思います。分量も、「悪夢その三」が他に比べて長いのでバランスが悪く感じます。三つにわけるのではなく、前日譚のように「悪夢その二」を配置するだけにしたほうがよかったかもしれないです。
 あとは、「脳味噌を見ることで相手の心を読む」専門家が登場しますが、SF的には「脳味噌を見る」という部分は、もう少し語彙の解像度を上げたほうがリアリティが増すと思います。ホラーだとしても、作品内で重要な能力の描写は、解像度を上げたほうが効果的です。ほかに、専門家が「その能力でなんかの役に立ちたい」という台詞の「なんか」は専門家が使う語彙としては違和感がありますし、「機械部屋」というのもわかるようなわからないような曖昧な名称に感じます。全体的に、作品の雰囲気に合わせた語彙を選んでいくことを徐々に意識していったほうが、完成度が上がっていくと思いました。
 とはいえ、そういったこととは別に、知り合った頃に実作をほぼ書いていなかった夢想さんが、三万文字の実作を書き上げて提出したことは個人的にうれしいな!という思いです!

18「螺旋のどん底」藤琉

https://school.genron.co.jp/works/sf/2019/students/aphelion/4169/

 ――24世紀。東京の沖縄割烹料理屋「ひとんちゅ」で働く日系アメリカ人ミヤザトタケルは、ある日の夜、CIAを名乗る謎の女性に声をかけられる。彼女から、タケルの料理の師匠である宗徳がある犯罪に関わっていることを告げられる。その瞬間から、タケルは社会の裏側で動いてきた大きなうねりに巻き込まれていく……

 24世紀という遠未来の社会を、藤さんが想像力を総動員して書き上げたという印象を感じる小説で、その野心にはとても好感を持ちました。遠未来の社会は書くのが本当に難しい題材だと思います。読者が減点方式で読解していくと、どうしても気になることがたくさんでてきてしまう。この小説もそこは避けられてはいないのですが、それよりも300年後の社会を舞台に現代人である読者が何を考えることができるのか、という観点はとても読ませる感じはします。ただその読み解きは難しく、もう少し物語を読者にやさしい形に調整してもらえたら、という思いも感じました。例えば、物語のラストは主人公タケルが銀人(意識のみをアンドロイドにコピーした人類?)となり、タケルの生身の身体に別の意識が入っていると思われる相手と対面する直前で終わるわけですが、ここでタケルは「僕は、僕と対峙した時に、どんな気持ちになるのだろう」と独白いているけれど、原稿用紙100枚を使って書かれたここまでに至る物語のなかに、このときのタケルの感情を追体験させるような伏線がほとんどないので、唐突な展開に見えてしまっていると思います。SF的なアイデアとしても、このラストは必ずしも舞台が24世紀の社会でなくても書けてしまうように思えてしまう。やはりこれだけ力の入れた舞台設定があるのだから、ラストもまたこの舞台設定でなければ書くことができなかったと思わせる内容にしてほしかったと感じます。
 また、これも物語の作り方の話ですが、主人公であるタケルには彼固有の人生の問題などが感じられず、他の誰かでもこの小説は成立してしまうのではないかという気がして、物語として弱いように思えます。そうなってしまっているのは、ひとつには前述のとおり彼固有の問題がないことと、もうひとつは物語内でタケルが主体的な行動を取ることによって何かが起こることがほとんどないためだと思います。タケルの行動はほとんど、誰かに依頼されるか、あるいは状況に巻き込まれ流されているか、のどちらかです。だからタケルはラストの場面でも、これまでの物語での自身の体験をベースにして現実に向き合う、という展開が起こらない。少なくとも、そう読み取ることは難しいです。料理人という設定もここではあまり活きていない気がします。
 二十年近く前に読んだ小説なのでマジでうろ覚えの話で恐縮ですが、例えば村上龍『五分後の世界』などは、同じように主人公が状況に巻き込まれて流されていく話ですが、主人公が並行世界の日本での体験を積み重ねていくにつれ、読者もまた主人公と同じ世界を歩んでいる感覚があり、その非現実的な体験が読者のなかで何か言葉にならない感情を喚起させていくような読書体験があります。あの小説のラストは、高校生の僕にはまったく意味不明というか、確かほぼ何も起こらないのですが、それでも並行世界を歩き続けた体感のようなものが残る小説でした(だからほぼ内容を覚えていなくとも、あの小説を読んだ記憶自体はいまだに残っているのだと思います)。
 この感想を書いていて、藤さんの小説の方向性(社会を物語に落とし込む)は、村上龍とかに近いような気もしました。村上龍と同等かそれ以上の小説が書ければ素晴らしいですよね。
 あと細かい話ですが、「およそ300年前に生まれたスマートフォンが進化したもの」みたいな説明は、やはり無理があるような気がしました。「スマートフォン」という言葉が24世紀に出てくるのは不自然で、だから藤さんも「およそ300年前に生まれた」とつけたと思うのですが、それでも不自然さは消えていないと思います。遠未来を書くのは難しいですね。
 とはいえ、最初に書いた通り、24世紀の社会を藤さんが真剣に書こうとしたことは伝わってきたので、その熱意はこの小説を真剣に読ませるに足るものだったと感じます。

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