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【映画】『王国(あるいはその家について)』電動で感動な生き物の声

 人体に流れる微弱な電気、生体電気の発見は18世紀の医師であり物理学者であったルイージ・ガルヴァーニによる。つまりはそれ以前まで、人は自分の身体にまさか常に電気が走っているとは思いもよらなかったのだろう。電気が目に見える形で存在する状況はあまりない。実際、現代人である僕らだって、人の身体を見ただけでそこに電気が流れていると理解することは難しいし、何ならコンセントが通電しているか否かだって目視で確認することはできない。しかしだとすれば、ガルヴァーニの発見以前、人びとは自分たちが何によって動いていると想像していたのだろうか? 心や、魂や、あるいは感情だろうか。でもそれらのどれも目には見えない。

 草野なつか監督の映画『王国(あるいはその家について)』(『王国』)は、ある女性の犯罪を巡る物語だ。作品の構成はとても奇妙な作りになっていて、全体は大きく三つの映像パートに区分できる。

①フィクション内映像
②リハーサルのドキュメンタリー的映像
③街や自然を映し出す無声の映像

 ①のパートは冒頭・中盤・終盤の三度描かれる。作品全体の割合としてはかなり少ない。上映時間のほとんどは②のパートで、③は中盤で二度だけ挿入される。
『王国』の物語で起こる出来事は、冒頭の①フィクション内映像パートでほぼ説明されてしまう。主人公の女性亜希は、休職中に帰省した地元で、幼馴染の野土香に再会し親交を深めるが、結果として(ほとんど発作的に)野土香の娘を殺すことになる。冒頭では、殺人の容疑で逮捕された亜希が、取調室で刑事が読み上げる供述書の内容を聞かされる様子が描かれる。物語の顛末は刑事が読み上げるこの供述書にほほ書かれている。
 彼女の犯行動機は、供述書の内容でも不明瞭であり、刑事はそれについての質問を幾つか問いかけるが、彼女は「説明できない」と答える。また供述書には、「野土香には申し訳ないという気持ちがあるが、それは表面的な感情でしかなく、その奥にはもっと複雑な感情が流れている」といった意味の記述が書かれていることが、刑事の口から語られる。どうやら彼女の動機の真意は、彼女が口にする「王国」という言葉に鍵があるらしいと観客が理解した頃、冒頭の①のパートが終わり、②のパートが始まる。
 ②のドキュメンタリー的な映像はとても奇妙な作りをしている。まず最初の場面で、映像は亜希と野土香の会話を映しているが、彼女たちは稽古場で椅子に座って台本を読み上げている。つまりそれはフィクション内の出来事というよりも、そのフィクションを作り上げるためのリハーサル内の出来事なのだ。そこでは場所も人物もフィクションではなく現実側に立脚していると言える。ただ声のみがフィクションなのだ。そしてこのパートでは幾つかの場面が俳優によって演じられるが、それらの場面は幾度となく反復されていく。つまり俳優がリハーサルを入念に重ねる風景が観客の前に差し出される。通常の映画作品では考えられない構造だ。そのことには勿論意味があるのだが、それを読み解く前に、まず冒頭の供述書の場面のある細部に注目したい。

 壁にコンセントがある。
 僕が供述書の場面でとても気になったのはその一点の細部だった。
 亜希と刑事がいる取調室は、白い壁に囲まれた部屋で、二人は中央の机を挟んで椅子に座っている。亜希の背後には大きな窓があり林の木々が見えている(ここから犯人が逃亡しそうだ)。そしてその窓と同じ面にある壁の下部に、二口のコンセントがある。取調室らしく(?)殺風景な部屋にあって、映像の片隅に映るコンセントはとても目立つが、この時点ではまだその意味はわからない。続いて②のパートに入っても、コンセントは何度も現れる。二人の俳優が椅子に腰かけ向き合って台詞を読みあっている時、背後の壁には、二人のちょうど間に位置するようにやはりコンセントが存在する。画面にはちょうど、「俳優」「コンセント」「俳優」という並びが生まれていて、あたかもそれら三者が並列に存在しているかのようだ。そしてそれはおそらく正しい。
『王国』において「コンセント」は「俳優の身体」の存在に近い。ここには共通点がある。どちらも絶え間なく電気が通電している、という点もそうだが、それは些細なことで、より重要な共通点はその性質である。コンセントは家電やパソコンなどを接続することで、僕たちに電気の存在を確信させる。同じように俳優の身体は台本を読み上げることで、僕たちに「声」の存在を確信させる。と書くと、「声なんて普段から普通に聞いているよ」と反論されそうだが、この作品で映し出される「声」は、単なる空気の振動や音の響きのような日常的に感じる声とは異なっている。この作品における「声」は振動や響きに加えて、俳優の身振りや視線の動き、あるいはカメラの位置やピントのずれによって、日常ではほぼ感じることのない細部や輪郭を伴った「声」である。『王国』において映像の主役は俳優でも物語でもなく「声」だ。だからここでの俳優はコンセントのようなものだ。コンセントが電動の機械を作動させるための装置であるように、俳優の身体は「声」を作動させるための装置として映画に登場している。そして、機械が電気で動いているように、「声」もまた何かの動力を持っている。その動力が感情だ。

 ここまでを一度まとめると、この作品を構成する基本的な要素(動力 - 媒体 - 表象)は次の三者(二組)となる。
「電気/感情 - コンセント/俳優の身体 - 機械/声」
 この二組の重ね合わせによって『王国』は独特の人間像を描いている。「機械/声」として表象される生き物(エンディングクレジット後に映る無人の部屋にある炊飯器や冷蔵庫といった家電は、あたかも機械たちによるカーテンコールのようだ)。動力は「電気/感情」。『王国』が描く人間像は、つまりは「電動で感動な生き物」だ。
「電動で感動な生き物」の「声」はどのような表象か。リハーサルの映像では同じ場面、同じ台詞が繰り返される。しかしそれは同じ「声」が繰り返されているわけではない。俳優の細やかな演技や、そこに流れている感情は繰り返すごとに微小な変化を生んでいる(稽古とはそういうものだ)。だからこの作品に同一の台詞はあっても同一の「声」は存在しない。観客はそこに、亜希の供述書で語られていた「複雑な感情」を感じ取ることができる。それは繰り返される時間の中でこそ表現される。

 実はこの「時間」という言葉も、供述書の場面での亜希の口から語られている。亜希は、人生には密度の濃い時間が存在するが、それはいつやってくるかもわからず、リアルタイムではいまがその時間であることは認識できず、しかしその時間はその後の人生に大きな影響を与えることになる、と語る。そしてまた、刑事に対して「自分は既に裁かれている」と言い、その意味を問われると、正確に言葉にはできないが「時間」という言葉がもっともその意味に近いと語る。
 密度の濃い時間はリアルタイムでは気づけないということと、この映画が観客に何度も同じ場面=時間を見せていることは相似している。例えば亜希と野土香の二人の会話で交わされる複雑な感情を、観客が初見で理解することはおそらく不可能だろう。それは繰り返し観ることで少しずつ複雑さがあらわになっていく。そしてその言葉のひとつひとつが、どのように亜希の犯行に結び付いているのか、言語化できるほど明確な理解にたどり着かなくても、確かにそこにはある種の複雑な(一面的ではない)感情が流れていたのだと徐々に理解していくだろう。
 また、この映画は同じ場面を異なるカメラアングルで繰り返すが、カメラの機能はここでは「一つの規格(ルール)」のようなものとしてあり、リアルタイムで感じ取れる感情は一面的でしかないことを示している。③のパート「街や自然を映し出す無声の映像」では、車上に設置されたカメラが、道路交通法(ルール)に従って移動する車と一体化した映像が映し出される。あるいは「鉄道」「遊び」「自然」などを象徴する被写体が映る場面が、アングルを固定したカメラで無声で映し出される(あと二場面ほどあったが忘れてしまった)。そこでの被写体はどれも規則(ルール)を持ったものの象徴と言える。つまり③のパートでは、②のパートにおけるカメラの役割が「リアルタイムの一面的理解(一つのルールに従い「声」を解釈する行為)」であることが示唆されている。だから②のパートは異なるカメラアングル(多面性・複雑性)によって繰り返される必要があったのだ。
 では亜希が口にした「既に裁かれている」という言葉の意味はどう捉えるべきか。この問いはこの作品最大の難問に感じられる。慎重に言葉で追える範囲で捉えようとするなら、まず亜希の語る「時間」という言葉には述語が欠けている点は重要に思える。「時間」はおそらく「密度の濃い時間」と関係している。本論では詳述しないが、それはタイトルにもある「王国」や「家」と関連していて、亜希はそれらを「領土」と呼ぶ(「領土」が立ち上がる契機は「声」である)。だから例えば、裁かれることが「時間が奪われる」「時間が毀損されること」などと表現されていれば理解はもっと容易かったはずだ。あるいは、「時間の密度に気づいてしまうこと」や「時間の密度に潰されてしまうこと」といった表現でも、亜希の「既に裁かれている」という言葉の真意は推し量れただろう。しかし実際には、彼女は「時間」としか口にしていない。であれば、それは述語のない「時間」として考えなくてはいけない。
 述語がないということは、逆説的にあらゆる述語と接続する可能性を秘めていることでもある。それは「声」に流れる感情の多層性とパラレルとなっている。裁きとしての「時間」は多層的で、やはりリアルタイム(単一の時間)では説明ができないのだ。このことを踏まえると、観客が目にする②のリハーサルのパートは、「声」の反復であると同時に「時間」の反復でもあったと言える。そしてその反復=多層性という裁きの中に、亜希は既に/今も居続けている。

 終盤には再び①のフィクション内のパートが描かれる。そこでは供述書で触れられていた、犯行の理由を書いた亜希から野土香への手紙が、亜希自身によって読み上げられる。その内容は、亜希の考える「王国」と「領土」の問題であり、非常に抽象的で理解が難しい。また亜希自身が、その手紙は自分と野土香にしか理解できないだろうと言い、手紙の暗号的側面に言及している。①のパートは②のパートと異なり、作中で一度しか描かれない。故に特に冒頭と終盤の①のパート(刑事による供述書の読み上げと、亜希による手紙の読み上げ)ではその「声」の暗号性が強調される。
 亜希でも野土香でもない観客の僕たちにはおそらくその暗号は読み解けない。しかし僕たちは暗号自体は受け取っている。それは「コンセント/俳優の身体」を媒介にして、「電気/感情」という不可視なモノとして観客の視界に飛び込んでくる。観客が目にしているのは亜希であり、彼女は「電動で感動な生き物」としての人間であり、その「声」であり、「時間」であり、そこに潜在する多層性である。そして、きっと亜希でも野土香でもない観客が理解できるのはそこまでで、そのことを『王国』という作品は語っている。

 最後に少しだけ、本論では中心に取り扱わなかった存在について触れておきたい。それは、亜希が殺した野土香の娘、穂乃香のことだ。『王国』の主な登場人物は亜希、野土香、それに野土香の夫の直人の三人であり、画面内に登場する俳優もそれぞれの人物を演じる三人のみなので、穂乃香の姿は観客の前に現れず、その声もほぼ省略される。この事実は、亜希という加害者の「声」が、被害者の穂乃香の「声」をほとんど表象していない/することができないことを意味している。150分という上映時間を通して、観客に伝わる穂乃香の情報はとても少ない。しかし念のために補足しておけば、この事実は別にこの作品の瑕疵ということでもない。『王国』は亜希の「声」と「時間」の多層性が主軸だからだ。したがって、だからこそ穂乃香の声は「不在の声」となる。そして僕たちは逆説的に、描かれなかった「不在の声」について想像する契機をこの作品から与えられている。それは『王国』が中心的に描いた亜希の「暗号」とは別の、しかしそれと無関係ではない別の「暗号」なのだ。観客はこの作品から、二つの解けない「暗号」を受け取っている。そのことはやはり、書いておくべきことのようにいまの僕には思われる。

(遠野よあけ/5159文字)

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