ゲンロン新芸術校第六期グループA展『かむかふかむかふかむかふかむかふ』評
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ゲンロン新芸術校第六期グループA展『かむかふかむかふかむかふかむかふ』評

遠野よあけ

 先日、SF創作講座の同期の能仲さんと、ゲンロン五反田アトリエで行われている、ゲンロン新芸術校第六期グループA展『かむかふかむかふかむかふかむかふ』を観てきました。この記事は展示を鑑賞して感じたこと考えたことの記録です。
(写真がへたくそですみません……)

 グループA展自体は、9/20(日)までの展示とのことです。
https://genron-cafe.jp/event/20200912/
 10月にはグループBの展示があり、11月にグループC、12月にグループDと毎月展示があるようなので、できれば今年はぜんぶ足を運びたい(毎年、全部の展示までは観られていないので、今年こそは)。


グループA展『かむかふかむかふかむかふかむかふ』評

総評

 作品ごとの評の前に、展示全体につれて簡単に触れておく。『かむかふかむかふかむかふかむかふ』には六人の作家が参加していて、それぞれの作品はゆるく繋がりながらも初見の印象ではかなりバリエーションがあるように感じられた。ビジュアル的に目を引く作品もあれば、それなりに頭を使って鑑賞しなけれど楽しむためのとっかかりに辿り着かない作品もあった。ステートメントを読みつつ、同行した能仲さんと意見を交わしながら、あるいは在廊していた作家さんに話を聞きながら、いろいろと考えを巡らすことでかなり展示を楽しむことができたと思っている(とはいえひとりで行って話を聞かなかったら楽しくない、というタイプの展示でもないと思う)。
 個人的に特に好きなのは、宮野かおり〈シスター〉と、川崎豊〈正しさの巨人(赤/青)〉だった。ビジュアルに強い印象を感じると、作品をもっと知ろうという関心が生まれるからだと思う。一番頭を使ったのは、堀江理人〈室内・風景 昭和史/個人史/家族史〉で、堀江さんは最終成果展への進出が決定したそうなので、この作品がより洗練されたものを是非見てみたいと思った。
 展示のタイトルである『かむかふかむかふかむかふかむかふ』は、ステートメントによれば小林秀雄の文章から来ているとのことだった。言葉の並びの見栄え自体はかわいいし好みではありつつも、展示空間という共時的な場のなかで(フィジカルに)考えるという行為は、現代美術の展示や作品においては大抵の場合通じてしまうのではないかという印象を覚えた。正しいことが書かれていたと思うけれど、「かむかふ」ための装置という見立ては適応できる範囲が広すぎるので、このグループ展の固有性をステートメントで引き出しきれているのかという点には少し疑問が残った。個人的には、ステートメントなかにあった「作家それぞれの「あいだ」に対する切実な問いかけ」の部分がもっと言語化されていたほうが、全体の統一性と固有性を主張できたような気がしている。
 


圡金〈ダブルスコープ〉〈天体観測〉〈ワームホールウィンドウ〉

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 エイリアンを描いた三点の作品と、会場図には記されていない幾つかの小さな作品が展示されていた。三作品とも、不気味な形象のエイリアンと思われる対象や、セロハンや糸などを用いた意味のわからない意匠が画面上に描かれている。また作品名からは、エイリアンを見ることは何かを覗く行為であることが示唆されている(スコープ、天体観測、ウィンドウ)。〈ダブルスコープ〉と〈天体観測〉の間の壁には、折りたたんだ紙にボールペンが貫通したオブジェのような作品が掛かっていた。平面的空間のA地点とB地点は、平面上では離れているが、空間を折り紙のように折りたたむことで3次元的に接近するというSF作品などに登場するワープ理論を、オブジェは紙とボールペンで表現している。この小さな作品は、圡金の作品の力点が、見る者(人間)でも、見られる者(エイリアン)でもなく、その異質な両者が出会ってしまう経路(ワームホール。ここではボールペン)にあることを感じさせる。
 筆者は圡金の作品を観て、映画『未知との遭遇』を連想した。あの映画は、宇宙人とのファーストコンタクトへ至る過程とその瞬間のみが描かれていて、それが何を意味するのか、それから何が起こるのかについては何も語っていない。登場人物たちがファーストコンタクトへと向かっていく異様なテンションだけで支えられた不思議な物語だ。けれど、コンタクト(接触)つまりは人とエイリアンを結ぶ経路のみが描かれたあの映画は人を惹きつける魅力に満ちている。人は未知との遭遇に惹かれてしまう。しかしその欲望が他者を知るためのものなのか、自身を知るためのものなのか、その線引きは思いのほか難しい。あるいは経路そのものに何か力があるのかもしれない。圡金の作品は鑑賞者にそんな思いを抱かせる。
(画像の作品は〈天体観測〉)


宮野かおり〈シスター〉

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 往年の『りぼん』『なかよし』『ちゃお』といった少女漫画雑誌の絵柄を思わせる大きな絵画作品。具体的には、筆者は種村有菜やCLAMP、藤田まぐろを連想した。描かれているキャラクターたちは、どの女の子も少女漫画の主役を張れそうなほどの意志や個性を感じさせるキャラクターデザインが成されていて、現代美術ファンというよりも漫画ファンとして筆者は鑑賞が楽しかった(個人的な一押しは左上の竹箒の女の子)。画面に散りばめられた花やりぼんや鐘といったアイテムも、少女漫画の世界観ではよく目にするモチーフだ。一見するとそれこそ少女漫画雑誌の読者特典のような画面だが、ステートメントを補助として見ていくと、ここでは作者の個人史と少女漫画史(主に90年代?)を重ね合わせてあり、美大という環境において少女漫画的イラストが評価されずらいこと、その価値観を作者が内面化した結果、自身もまた少女漫画的イラストを抑圧していた事実を踏まえて、少女漫画のヒロインたちの自立を尊重する意図が込められていることがわかる(というより、彼女たちはもともと自立していたのだと言える)。
 作者に作品内のモチーフを訊ねたところ、各キャラクターは童話などの登場人物を少女漫画的タッチで描くことで、童話内の役割から自由になった二次創作的な姿を描いているらしい。ここではつまり、作者、少女漫画のヒロイン、童話などの登場人物という三重の自立が尊重されている。しかしこの構図のなかで、筆者が気になったのは、画面右中央に立つ青いワンピースの女の子だ。画面のなかのキャラクターたちを眺めていくと、どうにもこの少女だけがキャラ立ちが薄いというか、モチーフの解釈が難航している印象がある。
 この女の子は『不思議の国のアリス』の主人公アリスをモチーフとしたキャラクターらしい。ほかのキャラクターが、シンデレラ、眠り姫、ラプンツェル、親指姫などの童話をモチーフにしているのに対して、『不思議の国のアリス』は作者もはっきりしている近代に創られた児童小説である。もともとは少女たちとピクニックに出掛けたルイス・キャロルが、道中で少女たちを楽しませるために話して聞かせた即興の物語が元となっている。不特定多数の人間に語り継がれることによって今の形となった多くの童話と違って、『不思議の国のアリス』は明確に少女たちのために創作された物語だ(少女漫画と同様に)。その物語からアリスを自立させるという試みからは、他のキャラクターの自立とは異なる質感を覚える。この〈シスター〉という作品は、絵画作品としての完成度にまだ伸びしろがあるように思うが、それとはまた別のレイヤーとして、アリスの自立というテーマにも掘り下げる価値があるように感じた。


川崎豊〈正しさの巨人(赤/青)〉〈欲望の模型(渇望/ふくらみ/性交)〉

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 赤と青に塗分けられた巨人が机の上に立って、こちらを見下ろしている。と、ついタイトルと見た目の印象で巨人と書いてしまったけれど、机の高さという下駄を履いているだけで、もしかしたら筆者と大して身長は変わらないのかもしれない。高所から見下ろされるだけで、自分と相手の相対差を見誤るというのはよくあることのような気もする。
〈正しさの巨人(赤/青)〉の手前には、〈欲望の模型(渇望/ふくらみ/性交)〉という三点一セットの作品があった。どれも巨人とは比べるべくもない小人のような人(のようなもの)が粘土で形作られていた。作品とタイトルに相違があったら申し訳ないが、〈欲望の模型〉はそれぞれ次のような作品で、どれも巨人とは異なり白い粘土だ。渇望は、くねくねした海藻のような人型のような何かが台の上に溢れかえり、中央にはそれらがあわさって少し大きな人型を成している。ふくらみは、異様に腕の長い小人が、自身よりも大きな丸みを帯びた何かに手を伸ばしている。性交は、丸みを帯びたふたりの人物が抱き合い、文字通り性交の場面を形にしている。三つの作品は、それぞれ高さの異なる位置に設置されていて、〈巨人〉に対してはみな低い位置にある。
 これら四つの作品を構図的に言葉で解釈することは難しくないだろう。下段の〈欲望の模型〉は性欲にまつわる作者の暴力的欲望が形をなしたものであり、それらが制作のエネルギーであると認めながら、上段の赤と青という相反する属性(ここには様々なものが代入可能だろう)で構成された腕のない巨人が、うつろな表情で下部構造を監視している。暴力(加害性)を監視する社会的環境的な構造とも言えるし、すべての作品が粘土という同一の素材で作られていることから、赤と青から巨人を生み出しているのもまた作者本人の意識とも言えるだろう。構造自体は言葉にすれば誰にでも思い当たることであるし、バランスが取れているがためにそのバランスを崩す契機は構造にはない。
 それでも筆者には、〈巨人〉や〈欲望〉たちの独特なフォルムはとても印象に残った。それらは直感的に何か見知ったものを象っているようで、近づいて細部を見ていくと見知らぬ輪郭や質感を備えている。それから〈巨人〉は単純に大きくてぱっと見でまず驚くしなにより鑑賞者の目を引く。その存在感は、作品全体の構造的配置以上に魅力的に思えるし、その魅力があるからこそ作品全体や細部についての思考が促される。
 見下ろす巨人が正しさの象徴であるように、芸術作品においては均整のとれた構造もまた正しさを示してしまう。だからこそ、構造に還元されない素朴な「フォルムの驚き」こそがこの作品にとっては重要な働きを成しているように感じられた。
(画像の作品は〈正しさの巨人(赤/青)〉)


堀江理人〈室内・風景 昭和史/個人史/家族史〉

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 今回のグループ展のなかで、ひとりが展示している作品や構成する小道具の数ではこれが最も多かったと思う。家族が集合した大きな絵画作品を中心に、幾つもの小さな絵画やスケッチ、家族が撮った昔の写真、北海道美術史についての書籍、戦艦の模型、作者と父親の会話の録音を流し続けるカセットテープなど、さまざまな記憶と歴史的文脈の入り混じった作品だった。一言で言えば謎が多い。ステートメントを参照することで作品名にもある〈昭和史/個人史/家族史〉がゆるくつながっていることは理解できるような気持ちにもなるのだけれど、鑑賞者としてはどこに焦点を当ててみていけばいいのかわからない居心地の悪さはあった(筆者が美術史に明るくないこともあるのだろうけど)。すべてをステートメントで書いてほしいわけではないけれど。
 それでも少しだけ鑑賞から受けたものを書くと、素朴な実体験で恐縮だけれど、そういえば北海道はくらいよな、という記憶を思い出した。筆者の父親は北海道出身で、筆者が小学生の頃には毎年夏に北海道岩見沢市の祖父母の家に遊びに行っていた。その頃にも感じたし、数年前の祖父の葬儀(いや十年くらい前の祖母の葬儀だったかもしれない)に冬の北海道へ行ったときにも感じたことだけれど、北海道はくらい。もう少し具体的に言うと、雪が吹雪くと関東ではほとんど目にしない灰色のくらさに包まれるし、なにより夜は妙にくらい。くろいと言ってもいいくらいにくらい。埼玉の飯能の山の方の夜のくらさとは、うまく言えないけど何かちがうくらさがあった。だからなのか、戦争画の「くらさ」と北海道についてステートメントで触れられているのを読んで、筆者はそのような自分の記憶を思い出し、それを手がかりにこの作品に相対していた気がする。もちろんそれは作者の意図とは離れているだろうとは思うけれど、そうした理解を拒んでいる作品のようには感じなかった。「くらさ」と「くらし」によって〈昭和史/個人史/家族史〉が繋がってゆくような予感を覚えつつも、その予感の通る経路自体もやはりくらいのでこの文章もやや足取りがふらふらしている。
 ところで、在廊されていた作家さん(堀江さんではない)から、ゲンロンカフェで行われた講評において、ウォーホルのTシャツを着ていた堀江さんに気づいた椹木野衣さんが、そのことに言及し、ウォーホルと堀江さんの作品の関係性を批評的に語っていたというエピソードを聞くことができた。椹木さんの話の詳細まではわからないが、この〈室内・風景 昭和史/個人史/家族史〉という作品が仮にウォーホル的に(つまり表層的に)構成されているとしたら、確かな「歴史/家族」に思えるものがじつはすべてフェイクかもしれない、という可能性についての話だったようだ。それは実に批評的で面白い話だと筆者も思った。歴史や家族がフェイク、表層的なものの集まりだという読み替えはネガティブなものではなく、むしろ表層的なものが集まっても歴史や家族として成り立ってしまうことの不思議さについての言及なのではないかと、これも椹木さんの意図などはわからないけど、筆者としてはそう思った。偽史や疑似家族の問題でもあり、筆者が書く小説にもよく偽史を登場させるので、そういった理由からも興味深い。なにより、フェイクという糸口から見ると、うすぐらかったこの作品全体の見通しがとてもよくなった気がする。
 しかしそう思いつつも、また別の事も考えてしまう。この作品の中心をなすだろう、五人の家族を描いた大きな絵画作品は単体でも絵として魅力があり、それは鑑賞者の足を止めるくらいの力はあるように感じられた。作品にこれだけの力があるのだから、作品を見通す糸口は批評やステートメントの言葉ではなく、作品に内在するインスタレーション作品であってほしいという気持ちもやはりある。


宮野祐〈偽扉〉〈庭園〉〈粘菌と胞子〉

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 宮野の三つの作品は横並びに展示されており、中央の〈偽扉〉はひときわ大きく、筆者はまずこの作品の前で足を止めた。台座の上に設置された箱型の空間、その内壁に赤を基調としたいろどりあざやかな風景が描かれている。手前に見える足場には、黄色い道が左の内壁に向って伸びている。それは壁面をのぼって細々とした線で伸びていき、右上の神殿のような建物に入って行く。
〈偽扉〉の両側に配置された〈庭園〉〈粘菌と胞子〉は、腰よりも少し低い位置に設置されたジオラマのような立体風景の作品だ。向かって左にある〈庭園〉は、〈偽扉〉で黄色い道がたどり着く神殿の向こう側の風景らしい。向かって右には〈粘菌と胞子〉があり、そこには遠景にある山の姿が強調されて描かれている。〈偽扉〉の風景が、心なしか人の生活を感じさせる色合いなのに対して、左右の作品は自然を感じさせる色合いや形象をもっている。奥へ奥へとゆくほどに、人の世から離れた世界になっているようにも思える。
 作者の宮野祐は無宗教である自身の世界観から、死と生の接合面ともいえる楽園的世界を作品にしたらしい。それは複数の宗教的イメージを借用しながら構築された世界でもある。なるほど、そういう感じの作品なのか、と筆者はそこで作品の鑑賞に一区切りつけた。宗教的知識に乏しい筆者には、この作品をこれ以上積極的に読み解くことは難しいと思った。
 しかし在廊していた作家の方に、「この作品は足場の上に乗って鑑賞できますよ」と教えてもらって、それは試してみないとと思い、足場に上がった。箱のなか、〈偽扉〉のなかに足を踏み入れた。すると壁面が顔のすぐ近くに近付いてい来る。物理的に、楽園世界が近づいたという実感と同時に、間近で見ると離れていたとき以上にそれが絵であることがわかってしまう。偽物の間近に接近したことで死後の世界のリアリティが増している。この足場に乗ってもいいという情報も、人から聞かなければわからない(キャプションなどはなかったと思う)。一歩足を踏み入れるだけで見え方が変わるのだけど、踏み出す足場が本当に足場であることに人はなかなか気がつけない。近さと遠さが攪乱されるような体験だ。
 そして〈偽扉〉にはもうひとつ仕掛けがあった。足場に立ったまま振り返ると、アトリエの天井付近に、一枚の小さな絵が掛けられていた。そこには山が描いてあったと思う。うっかり写真を撮るのを忘れていた。そこは死者の魂が向かうという信仰のある山である、みたいな説明を聞いたと思う。詳しい情報は忘れてしまったけれど、とにかくそこは、目線の高さよりも上にあり、手も届かずそこへ向かう足場もない、遠い死後の世界だった。偽の扉とはうまい作品名で、扉の向こう側には何もなく、本当の死後の世界は扉の向きとは逆方向の遠い位置にあり、扉からそれは見上げることしかできない。本当の死後の世界、というととても語弊があるけれど、少なくとも宮野の作品のなかで、天井の山の絵がいちばん本当らしい死後の世界を、その近さと遠さを表現していることは確かだと感じた。
(画像の作品は〈偽扉〉)


松岡湧紀〈Suburb Quest〉

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 アトリエの最奥に展示されていたのはビデオゲーム作品だった。まず壁に掛けられたタブレットに映し出された映像があり、その奥へ進むとディスプレイに表示されたゲーム画面と、ディスプレイの向こう側の壁に映写された実写の風景がプロジェクタで映し出されている。この三つの画面が、〈Suburb Quest〉を構成しているようだ。デイスプレイの手前にはコントローラーが置かれていて、これでゲーム画面のなかのキャラクターを操作できるらしい。試しにキャラクターを動かしてみると、無個性な人型のキャラクターが、どこかの団地の通路を歩いていく。通路には扉が並んでいて、扉に近付くとボタンを押すように指示が表示される。ボタンを押下すると扉が開き、キャラクターは別の場所へと移動する。移動先は扉ごとに異なり、それは団地の部屋のなかではなく、揺れる電車のなかや、公園の砂場や、デパートの入口だったりする。その場所で一定の操作を行うと、また団地の通路に戻ってくる。階段から別の階へ移動しても、同じフロアの通路へ戻ってくるようになっている。ゲームはこれを繰り返す内容となっていた。壁に映し出された風景は、ゲームと連動しているのかはっきりせず、不規則に風景が変化していく。
 団地、あるいは郊外の生活の記憶がこの作品のテーマであるようだ。おそらくは作家の個人史と紐づいた風景の記憶なのだろう。筆者も幼少時は東京の光が丘に住んでいたため、作品の内容になつかしさを覚えた。ただ、記憶を追体験する作品としては、やや単調にも思えた。ゲームのなかで提示される記憶の風景は、ややステレオタイプな団地の記憶に偏りがちで、納得感はあっても意外性がなかった。砂場を掘り続ける、電車に揺られ続ける、デパートで電池を探すが見つからない、などの表象は記憶の表現としてはやや陳腐だ。キャラクターの操作も軽快で、記憶のなかを歩くということの非現実的な行為の抵抗や違和感は少ない。シンプルではあるけど、物足りない印象を覚える作品だった。
 けれど面白い点もふたつあった。ひとつは、ある扉を開けたとき、ディスプレイとプロジェクタの映像が入れ替わったことだ。さきほどまで実写の風景が表示されていた壁のなかを、自分が操作するキャラクターが歩き、逆に3Dのゲーム世界が映し出されていたディスプレイのなかに現実の風景が入り込んだ。この映像の逆転は何とも言えない居心地の悪さと高揚感を覚えた。もうひとつは、ゲームを終えて通路を戻ろうとしたときに気が付いたことで、最初に見かけたタブレットのことだ。そこにはゲームと同じ画面が表示されていたが、それはゲームと連動していないようで、コントローラーをいくら操作してもタブレットのキャラクターは動かない(もしかしたら筆者が気がつかなかっただけで、タブレットと連動した扉があったのかもしれないが)。ディスプレイとプロジェクタが連動しているのに対して、逆にタブレットは何もつながっていない。その動かない記憶の風景は、動くことのできる記憶の風景と対になる事でとても不気味に感じられた。タブレットに映し出されたキャラクターは、ディスプレイのキャラクターと同じ風景に立っていながら、異なるものを見ていて、異なる記憶を持った主体のような気がした。

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遠野よあけ
作家・批評家。批評誌『クライテリア』編集長。佐々木敦批評再生塾卒業生。大森望SF創作講座4期受講生。ひらめき☆マンガ教室3期聴講生。SF。創作。小説。漫画。現代アート。ボドゲ。TRPG。阿澄佳奈さん。yoakero@gmail.com