見出し画像

世界の見え方

今はもうだいぶ薄れてしまったように思うけれど、幼い頃の私は、数字に色とかキャラクターみたいなものを感じていた。
1は白で 2はオレンジ、4は女の子。5は茶色でそして、男の子。9は紫で、所謂オネエ的な感じのキャラ、、という具合に。

数字が組み合わさると 色も同じように混ざり合うので、33を見れば、真っ白な雪みたいだなぁと思うし、2のオレンジと6の群青色がグラデーションになって、マジックアワーの綺麗な空が浮かぶから 26という数字は、とても好き。

こういうのを一般的には、共感覚と言うらしいのだけど、当時子供の私がそれを知るはずもなく、そしてみんな自分と同じように見えて、感じているのだと思っていた。

だから、ある日 姉にこの数字のことを話すと、
「は?私 そんなん、全然ないわ」とあっさり言われたことに私は衝撃を受けた。

え?これ 私だけなん?

そう思うと、段々と世界の見え方が変わってきて、

赤色って 何で 赤って言うんだろう?
これを赤だと どうやって認識しているんだろう、もしかしたら青かもしれないし、緑や黄色かもしれないのに。
どうして1が最初で、その次が2なの?この順番も数字も誰が決めたの、、みんな本当にそう思ってる?見えてるの、、?

といった、概念を疑う(とでも言えばいいのかな)ような思考のループに時々陥るようになった。

考え始めると、目に入るものすべてが不思議に思えて、鏡に映る自分は 本当は私じゃなくて、この世界すら夢なのかもしれない、というところにまでいってしまう。
地面から足が浮いたような感覚に包まれて、少し怖くもあった。
答えは出ないし 想像は際限がないしで、どうしようもないので、結局それはいつも 心の底の方へ押し込めていた。

小学生くらいまでは、そういう感覚を少し怖いと思っていたのだけれど、成長するにつれて、人それぞれの感じ方や思考の違いを面白いと感じるようになっていった。

同じ場所にいても 見ているものが違う。
同じ時間を過ごしていても 記憶に残っている場面が違う。

写真の撮り方ひとつにしても、その切り取り方から、全然見ている世界が違うんだなってことにハッとしたり、面白がったり 時には嫉妬もしたり。

いろんなひとのいろんな考え方に触れることができるのは、SNSのいいところだなと思う。
見たことのない世界とか、自分には全くない発想をもたらしてくれるのはとても刺激的だし、楽しい。

でもそれと同じくらい、自分と似た感覚の人を見つけた時もやっぱり嬉しかったりする。

本を読んだ後や映画を観た後、答え合わせをするみたいにワード検索をかけることが時々あって、そこで自分の心情と重なっていたりすると、あなたと私、いま同じ世界にいましたね、みたいな気持ちになってニヤニヤしてしまう。(気持ち悪い 笑)

大袈裟かもしれないけど、なんかやっぱりそういうのって奇跡なんじゃない?って思ってしまうから。
37はミルクティーだよねって いきなり私が言い出しても あぁそうかもねって 感覚を共有できるような感じ。

そういう小さな共鳴を感じた時にいつも、三浦しをんの小説「きみはポラリス」の中の「冬の一等星」という話を思い出す。

無数にある星の中で あの星だと指差した先に 同じものが見えているかどうかなんて 確かめようがないけれど、それでもそれが同じだったと確信できるのは、相手の心よりも もっと奥の 無意識の世界に触れたということなんだろうなと思う。

自分と相手の世界の輪郭の一部分が重なって 溶けて混ざり合ったような。共感を超えて、相手の中に自分の分身を見つけたみたいな感覚。
それはきっと瞬間のもので、そしてそんなに多くは訪れないからこそ、切なくて愛おしい。

世界はひとつじゃなくて、それぞれの集合体。
宇宙に浮かぶ銀河と似ているなーなんてことを時々考える。

私の思考は子供の頃から 変わってないんだな。笑
いつだって想像は宇宙に向かって 果てしなく進んでいくんだから。

ほら、文章もめっちゃ支離滅裂!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?