ねじまき鳥クロニクル
岡真理さんの『ガザとは何か』を読む前に、京大で行われた講演会の映像を週末に見ていた。
気になったのは、「人文学の死」というタイトルだった。
今ガザで起きていることについて、人文学の視点から語ることができないならば人文学研究に何の意味があるのか、というような訴えには切実なものがあった。
全ては繋がっている、ということを人文学の知は教えてくれる。
その言葉を聞いたとき蘇ったのは、去年読んだ村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』だった。
三部作の長編で、ノモンハン事件のことを書いていると聞いて、いまいち興味がわかず手が伸びなかった。
最近になって春樹作品の良さをあらためて感じるようになり、ようやく読んでみて、その洗練された文体と物語の深さに驚いたのだった。
この作品には、悪の象徴的存在として綿谷ノボルという人物が出てくる。
主人公の岡田亨は、村上作品の主人公としては驚くほど普通の人物だが、ただのいけすかない義兄であるはずの綿谷ノボルを一見スマートに、本人も認めるほど異様に憎んでいる。
岡田亨は強くない。いなくなった奥さんのことを思い、静かに井戸の底に座って回想しながら、じっと時を待つ。かつてノモンハンでの戦闘を経験した本田さんと間宮中尉。生の全てが痛みだったという加納クレタ。ナツメグとシナモン。
時を超えて現れる人間の中に、誰にも見られていない歴史のうちに、日常の中に、考えられうるあらゆる残酷があり、悲劇があり、結末も脈絡もない苦しみがある。ねじまき鳥が世界のねじを巻く。あらゆる歴史と、あらゆる人間の中にある悪は、繋がっている。それらは全ての人間の無意識の底にある暗闇を映している。
岡田亨は極めて普通の人間だが、大きな悪に対して最後までそれを断固として否定する。クミコを取り戻すために機を窺い、壁を抜ける。
二人が人知れず一つの悪の息の根を止めるということは、それだけで人類を救うものではないが、絶対に認めなかったという意志、闇の中でがむしゃらに振り回したバットの感触は意味がないものではない。一つの悪を決して許さなかったという結末は、あらゆる人の痛みや、果たされなかった思いを包み、これからも生き続けるという答えを静かに示している。
歴史上のあらゆる悪は、それだけが一つの点ではない。植民地主義という暴力、差別という暴力、人を人とも思わない、という心の底にある闇は、日常のあらゆるところに存在し、繋がっている。
綿谷ノボルが現れたとき、岡田亨のような地味な戦い方ができるか?たぶん難しい。
岡田亨の強さは、正体の見えない悪に対して、その存在を粘り強く見極め言葉にしていくことにあるように思う。
その本質はバットによる戦いではなくて、言葉による戦いだった。そのための三部作の物語を私は真剣に読んだ。
村上春樹は政治や主義を語らない作家だと言われる。でも言葉による戦い、文学による戦いと聞いたとき、私はこの物語を思い出す。
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