見出し画像

私の「紫陽花」を返して

 昨日の朝のことです。

 いつもの公園のいつものベンチでひとりコーヒーを飲みながらパンを齧っていました。天気は気持ちの良い晴れで、ベンチの横には青い紫陽花が綺麗に咲いています。

 紫陽花は紫よりも青い物が好きです。つい最近鎌倉の明月院に行って、「明月院ブルー」という紫陽花の海を観たのですが、人の多さが気になって少し疲れてしまいました。ですが、ここはとても静かです。早朝のこのベンチはその美しい青を独り占めできる特等席なのです。

 そして紫陽花は大嫌いな梅雨の救世主です。雨に濡れたその花もとても美しいと思います。じめじめした梅雨も、その艶やかな青や紫を見つめていれば、きっとすぐに過ぎ去るでしょう。そういえば、今年の梅雨はどこへ?

 さて、私がその紫陽花を横目に朝食を取っていると、誰かがやって来ました。その誰かは紫陽花の植え込みの向こう側から近づいて来ます。2人組のようです。話し声を聞いた感じでは60代くらいでしょうか。

 私は特に気にすることもなくパンを齧っていたのですが、紫陽花の前でその2人組が急に小声になったことに違和感を覚えました。

 向こうの2人はこちらに気づいているのでしょうか?耳をそばだててじっとしていると、1人が、

 「大きいのだとバレちゃうから」

と言いました。

 私はとても嫌な予感がしましたが、そのことが余計私の目をそちらへ向けさせませんでした。しばらくして、「パキッ」と小さな音がしてその2人組は去って行きました。

 小心者の私はただじっと見て見ぬふりをしていました。そして、だいぶ2人が離れたところでようやく視線をそちらへ向けます。やはり、高齢の女性2人組でした。手には摘み取られた青い紫陽花の花がありました。声のトーンはすっかり戻って談笑しながら向こうの階段を降りて行きます。

 私はどうするべきか思考を巡らせていました。通報するべき?どこに?公園の管理事務所かな?いや、こんなに朝早くからやっているはずはないでしょう。区立の公園だから区の窓口に連絡?いや、それこそ受付時間外だ。じゃあ、警察?公園の花を摘んだのだから、犯罪なんじゃ。窃盗?それとも器物損壊?通報したらどれくらい時間がかかるかな?あと30分もしたら仕事の時間だし……。そもそも、紫陽花一房盗っていったくらいで、いきなり警察は大袈裟なんじゃ?どうしたら……。

 そうしてあっという間に仕事の時間が近づいて、私は何も行動を起こさずに職場に向かい、タイムカードを切りました。


 結局、私はどうすれば良かったのでしょうか。答えはわかっています。花を摘んだ時点で、私が声をかけるべきだったのです。

 ではなんと言ったら良いのでしょう?「一房くらいいいじゃない!!」と食ってかかって来られるかもしれません。

 「ここは区立の公園です」「紫陽花は道端のタンポポとは違って税金で管理されているものです」「公共の財産です」「立派な犯罪ですよ」「窃盗罪は十年以下の懲役又は五十万円以下の罰金が処されます」、いや、そもそも話が通じる相手ではないかもしれません。

 なら情に訴えてみる?「あなたが庭の花を見ず知らずの人に摘まれたらどう思います?」「悲しいでしょう?」「この紫陽花も一生懸命手入れしている人がいるんです。」だから……。

 いいえ、違うのです。

 私はいつもいつも、気が小さいことが災いして、すぐに理論武装したり、相手の反応から逆算して言葉を選んでしまいます。そうではないのです。

 私はただ一言、

 「私の好きな花を盗らないでください」

 そう言いたかったのです。

 犯罪だから良くない、とか、道徳として良くない、とか。そんなことはまず置いておいて良いのです。私が嫌だった、と、そう言えば良かったのです。

 それで相手がどんな反応をしようと、まずは自分の気持ちを伝えれば良かったのです。「犯罪だから止めなきゃ」、とか。「悪いことだから止めなきゃ」、とか。理由を見つけたいのは、結局は自分の「嫌だった」という気持ちの後ろ盾を探したかっただけなのです。

 「嫌だからやめて」

 小学生でも、下手をすれば幼稚園生でも口にできそうなことを、三十路の私は言えなかったのです。


 今となっては後の祭りですが、胸にモヤモヤした感じを残しておくのは嫌だったので、ついさっき公園の管理事務所に行って来ました。

 私はまるで自分が罪を犯したかのような掠れ声で、「実は先日……」と話を始めました。告げ口をするようで、若干の居心地の悪さも感じていました。

 対応してくれたおじちゃんは笑顔で「そうでしたか、そうでしたか」と聞いてくれて、まるでカウンセラーのようでした。話が終わると、「話してくれてありがとうございます。私たちも目を光らせておきます」と言ってくれて、少し救われました。

 ですが、あの小さな「パキッ」という音と、その音に私が耳を塞いでいたことは、事実として記憶に残っています。

 「悪いこと」は加害者と被害者だけでなく、意図せずそれを見てしまった第三者の目も曇らせてしまいます。

 私はこれから紫陽花を見るたびに、下手をしたらあのベンチに座るたびに、あの花が盗られる音と負の感情を思い出すでしょう。

 鬱屈とした梅雨の時期に心を晴れやかにしてくれる美しい紫陽花は、もう、それだけではなくなってしまいました。

 どうか私の「紫陽花」を返してください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?