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専業育休中の夫(理解のある彼くん)から「離婚したい」と言われた

娘が産まれて、私の人生変わったと思っていた。

10代からつづく慢性的な自己肯定感の低さ、仕事も低空飛行、発達障害の診断を受け入れられず泣いたりわめいたり。
めんどくさい系まっしぐらだった私は、夫と出会って「この人とだったら子育てできるかも!!そしたら幸せになれるかも!」と思った。
夫は、「あなたの幸せをかなえるのが僕の幸せ」と公言してはばからない。
掃除や整理整頓ができない私に助言を与え、仕事のアドバイスを与え、「子どもがほしいけど仕事を離れるのも嫌!」といえば、「僕が育休とって家事も全部やるから、あなたは好きなときに復帰していいよ」と言った。

絵に描いたような、「メンヘラ女と理解のある彼くん」という夫婦なのだと思う。

人生最高だと思っていたのは私だけ

私は子どもを産み、半年で復帰。夫が交代で育休に入った。
産まれた娘は本当にかわいくていとおしくて、「私の人生最高だ!」と思えた。
復帰してからはフルタイムで好きな仕事をして、家に帰ったら床はぴかぴかで服も柔軟剤の香りがする。
仕事で嫌なことがあっても、「帰ったら娘がいるもんね」と思えばだいたいのことは耐えられた。いい意味で力も抜けて楽になった。

今までの人生で一番幸せだな。
と、私は思っていた。

だけど先日夫に言われた。
「ずっと離婚したいと思ってる」

その日、娘が寝た後に話しあって整理した夫側の気持ちはこういうことだった。
・一日じゅう娘の世話をするのがストレス
・そもそも自分が娘を愛しているのかが分からない
・娘の世話が大変すぎて、いままで好きでやっていた妻(私)の世話がつらい
・妻が家事の改善を頑張っていることは認めるけれど、戦力になるレベルには達していない
・自分の存在意義が分からないから、この家からいなくなりたい

私が人生で一番幸せな時期を過ごしていると思っていた隣で、夫は苦しんでいた。

予兆はあった。
私の仕事は基本的に、相手の都合でスケジュールを組む。
赤ちゃんがいるということで突発の出張からは外してもらっているが、何度か休日に泊まりがけで出張をしていた。それは夫から見ると「不要不急の出張」に見えていたらしい。

私がワンオペで娘を見ていたとき、夫は夜中の2時に帰ってきていたし、休日も作業のために出勤していた。
「目には目を」方式でそういう風にしていたわけだが、ちゃんとした週末がないと明らかに夫が弱っていく。
そのたびに申し訳程度の半休をとり、埋め合わせをしているつもりになっていた。

でも、夫の気持ちを聞いてみて、私はこの問題の根は私が思っていたよりも深いような気がした。

『愛しているか分からない」と言う生真面目さ

特にショックだったのは、「娘を愛しているのか分からない」という台詞だ。
夫は出産に立ち会った。「2人の子だから、絶対に立ち会いしてほしい!」という私の強い希望があって、私は妊娠糖尿病で転院になりかけたときは死にものぐるいで体重制限をして立ち会い出産を死守した。

娘が産まれた瞬間には涙を浮かべていたようにみえた。娘の名前を考えたのも夫だった。
でもそのときに夫が感じていたことを改めて聞くと、「『母子ともに健康でよかった』という安心感はあったけど、『うれしい』とは思わなかった」
という。
「どちらかというと責任の大きさを感じていた」

それを聞いて私は夫のことを全然理解していなかったなと反省した。
夫は「男らしさの呪縛」みたいなものからはとても自由だ。
会社での出世にも、業績を上げることにも興味がない。
私が結果が出なくて泣いているとき、「どうだっていいじゃん。仕事なんて人生の暇つぶしだよ」と言ってきた。
趣味はマイペースにできる山登り。
男性育休を半年とることに何の抵抗もない。

反面、クソマジメだったのだ。
娘のリズムをつくることを最優先に毎日を送り、家事のルーティンを決め、それに従って生活する。それが乱れると、「娘のためにできなかった」と落ち込むのだという。
私は自分の買い物のために娘のミルクの時間をずらしたり、外出先で上げたり、外出しながら昼寝したりすることがよくあったが、夫は絶対にそんなことはできないという。

娘を愛しているのか分からないというのは、こういう理由だった。
「僕はまだ○○ちゃんのことを何も知らないんだよ。どんな人か分からないのに愛するってできるのだろうか」

つまり「愛しているという資格があるのか分からない」に近い悩みだ。

私は自信を持って娘を愛していると公言しながら、自分の予定優先で行動することができる。
夫は生活の全てを娘に捧げてなお、「愛しているのか分からない」と言う。

たぶん後者の方がストレスが大きいんだろうなと思う。

だから夫がこういったとき納得した。
「離婚したいというのはつまり、重圧から逃げちゃいたいということなんだ」

「育児=犠牲」の先の景色を見たい

私はいままで、夫がきつそうにしているとき正直、「今後対等に育児できるようになるために分業しているんだから一人でやってもらえるようにならないと困るな~」と思っていた。
でも夫婦でも育児への向き合い方もストレス耐性も違うから、「俺はできた」じゃなくて相手の状況を考えてやらないといけないなと思い直した。

あと、よく父親が「妻をサポートする」っていうときに「ハァ~てめぇも主力でやるんだよ。見るべきは妻じゃなくて子どもだろうがァ~」と思っていたが、それは必ずしも間違いじゃないと思った。
なぜかというと、娘はずーっと元気で、すくすく育っているからだ。
何も間違ったことをしていないのに、「できていない」と思うのが子育てだと思う。
だから支えを必要としているのは育児を主に担っている人。
でもそういう意味でいうと、母親に向けた公的支援(保健師さんの電話とか)はたくさんあるけど、父親に向けてはほとんどない。こういうハンディのなかで頑張っていることをもっとねぎらって、自分で支えないといけないと思った。

「子どもができたら分かる」系の発言って本当に嫌だが、
以前から好きだった漫画を出産後に読んで、以前では考えられないほど爆泣きするということが最近よくある。
きょう読んだ、『リエゾン』という児童精神科の漫画もそうだった。

4人の子どもを持つ父親が、母親から育休取得を迫られて、「仕事で家計を支えるのも家族のためだろう」と拒む話。
最終的に父は翻意するのだが、そのときの台詞がこれ。

リエゾン 15巻から

これは、まさに夫に専業で育児してほしいと思った(正確にいえば、「僕が育休とるから復帰しなよ」と言われて安心した)ときの私の心境。
自分だけが犠牲を払うのはアンフェアだから、相手にも犠牲を払って欲しいと思ったのだ。

だけど夫の言葉を聞いていて、育児って自己犠牲以外のなにものでもないなと思った。
私は我を通すタイプだから子どもといても自分のやりたいことをある程度やると思うけど、それでも犠牲はゼロでは全くない。

子どもがほしいのに犠牲を払いたくないというのは最初から無理な相談で、
でも、犠牲としか考えないと苦しくなってしまう。

娘が出来て開けた視界とか、こうしてゆっくり考えるようになったこととか、夫婦で丸ごと味わっていけたらいいんだけど。


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