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人生のハンドルを握る

タイトルはポッドキャスト「となりの雑談」から。
自分の人生に関することを、他人のせいにしていることがとても多いことに最近気がついた。


たとえば家族。
「子どもが産まれたから、母である私はもう今まで通りに仕事をすることはできない」
「夫がフルタイム勤務だから、子どもの世話をワンオペでしなければいけない」
「ニュースをみるたびに、自分はもう昼夜問わず取材をしなければ書けない話を字にすることはできないと感じる」


たとえば仕事相手。
「取材先が、『こうしてほしい』と言っているから、無理して休日出勤する」
「上司が無理難題をふっかけてくるから、深夜労働する/体調が悪くても働く」
「チームの同僚が『自分にはできない』と言っているから、自分のHPを削ってでも引き受ける」

たしかに親という仕事は本当にdemandingだ。
しかしだからといって、自分の人生のうまくいかないことを「母親になったからもう無理」とお手上げしてしまうのは飛躍がある。
スーさんがいうところの「このまま行ったら木にぶつかる、と思いながら車のハンドルから両手を離している状態」だ。逆にいえば、「子を持つ親だから、子ども関係の記事を書くべき」と思う必要もない。
(ちなみにおじさんたちは「女性ならではの視点で~」とかいうけど、あなたたちは親じゃないんですか、と問いたい)

私は自分のやりたいことを考えていいし、決めて良い。
言い訳しないで今まで通りにやろうとするべきだ、ということではない。
なんかまだうまく言語化できないけど、ハンドルを持っているのは私だから、私がやりたいように周りを動かしていいということだ。

仕事はチームワークだから、自分以外の都合で私の負担が増えることは往々にしてある。だけど、相手の都合でこう「させられている」というばかりが行動原理になると、とてもつらい。それを続けていると、「私はこうしたい」が出てこなくなるし、好奇心も死んで行ってしまう。

最近私が抱えていた「好奇心の枯渇」は、あまりに相手の要求に応えすぎていて窮屈になっていたことが原因なのではないかと感じた。

さいきん学生時代の友人が遊びに来てくれて、5年ぶりぐらいに話をした。
「1年生のころによわみをキャンパスで見かけて、『友達になりたいな』と思ったんだよね」と彼女が思い出話をしてくれた。
学生のころの私はADHD全開で毎日遅刻していて、人に迷惑をたくさんかけた。それでも今より自由だった。「世の中のことを知るためには手段をいとわない」みたいな感覚をもっていて、知らない人に話しかけたり、夜通し街を歩いたり、全力で手探りをしていた。「もしかしたら間違っているかもしれない」と分かっていても、チャレンジする元気があった。

大人になってから時間に追われたり、ミスをして怒られたり、「結果を出せない方法は悪」と思いこんだりするなかで、そういう気持ちがすっかりどこかに言っていたことに気づいた。

でも今でもきっとあのころの自分は私のなかのどこかにいるし、なんなら少し洗練された姿になっているはずなんだ。

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