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見えない世界への扉:歩き遍路の心理学

「足痛めてしてもうて、焼山寺さん向かう山の中の階段でもう歩かれへんやったとき、ふと前を見ると草鞋履いた人が歩いてはってね。その人の姿は見えなくなったんやけど、階段の先にお大師さんの像があってね。足の痛みも嘘みたいにスッと消えてしまってたんよ。」 (ある歩き遍路の語り)

四国遍路の世界

 四国遍路とは、四国四県にある八十八ヶ所の霊場(札所)を巡る旅です。真言宗の開祖である弘法大師空海(お大師さん)によって、今から約1200年前に開創されました。徳島県の1番札所の霊山寺から香川県にある88番札所の大窪寺までの総距離は、1200キロとも1400キロとも言われます。

 四国遍路を歩いて巡礼する人の話を聞くと、道中で神秘的で不思議な体験をしたという人に多く出会います。上の語りを聞かせてくれたお遍路さんは、長年連れ添った奥様を亡くし、供養のために四国遍路を歩くことにしたそうです。歩きはじめて数日後の山中で足を痛めてしまい、遍路を断念して家に帰ることを考えていたとき、草鞋を履いた人に出会いました。その人が誰であったのか、今では確かめることもできませんが、そのお遍路さんいわく「嫁さんがお大師さんに逢わせてくれたんやなぁ」。

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 同行二人(どうぎょうににん)。四国遍路を旅する人には、常にお大師さんが同行しているという信仰がそのような言葉で受け継がれています。多くの巡礼者は車やバスで霊場を巡るのですが、中には徒歩で歩き通す人もいます。乗り物を利用して霊場を巡ることも出来るのに、なぜ歩くという選択をするのでしょうか。あえて苦しい選択をするのには、それなりの理由があるからです。

歩き遍路の心理体験過程

 四国遍路では、四つの国が悟りに至る段階として捉えられています。阿波国(徳島県)は、仏教に帰依しようとする心を起こす段階である発心の道場、土佐国(高知県)は精神的修練の段階である修行の道場、伊予国(愛媛県)は仏の教えの意味や深さを知り目覚める段階である菩提の道場、讃岐国(香川県)は、すべての煩悩を打ち破り、解脱の境地に導かれる段階である涅槃の道場と呼ばれています。四国遍路が悟りの段階というメタファーで捉えられるということは、個人の成長や心理的変化が見られるということなのです。以下では、歩き遍路に関する心理学の研究を紹介してみましょう。

 藤原(2001, 2006)は、自己過程の4位相(中村, 1990)に沿って遍路者の心理過程を説明しています。遍路のきっかけとしては、「自分を見つめ直したい」、「自分とはいったい何者なのか?」という自覚状態(自分が自分に注意を向ける状態)がスタートです。次は、遍路を行うという自己決断や遍路を実際に行っていることから新たな自己概念(「自分はお遍路さんになった」という自己定義)が生じる過程です。3番目の過程は、道に迷う、野宿を強いられる、雨の中での歩行といった困難な事態を克服することによる自信や自尊心の獲得、自己効能感の増大です。4番目は、同じ巡礼者や地域住民とのコミュニケーションから生じる自己開示と自己呈示です。このような過程を通して、遍路者は、自己変容あるいは自我の成長を経験するというのです。

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 また福島(2006)は、歩き遍路者への聴き取りをもとに、彼らの体験過程を6段階(導入・準備期、不安・試行期、葛藤・危機期、自己探求・安定期、統合期、移行期)に整理しています(表1)。

遍路における体験過程

わたしの歩き遍路体験から

 私自身も34歳から41歳になるまで、5回に分けて四国遍路を歩きました。大学卒業後、アジアの国々を旅していた頃から、いつかは四国遍路を歩いてみたいと思っていました。それが34歳のとき、自分が父親になるにあたって、一つの節目として四国遍路を歩いてみようと思い立ちました。通して歩けば40日前後の道のりを結局7年かけて歩き通すことになりました。私の場合は、88カ所の札所を通して歩く「通し打ち」ではなく、「区切り打ち」と呼ばれるスタイルでした。そのため、遍路の体験過程や自己過程の各段階を行きつ戻りつしながら経験していたように思えます。その過程では、自己変容や自我の成長とまでは行かないものの、普段の生活では見えていなかったり、感じることができていなかったことが確実に「ある」ということを強く実感できるようになりました。

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 福島(2006)や藤原(2001, 2006)による研究では、歩き遍路が経験する心理過程が明らかにされてきました。それでは、そのような心理的変化はどうして起こるのでしょうか。ここでは、「祈りを捧げること」、「お接待を受けること」、「道を求めて歩き続けること」という3つの要因を指摘しておきたいと思います。

 第一の要因は、祈りを捧げるという行為です。霊場では、般若心経や大師法号などの真言を唱え、祈りを捧げます。さらに道中では、同行二人の信仰の通り、お大師さんとともにあることを常に意識します。宗教的な聖地で神聖な対象を意識し、身近に感じ続けることは、その人の心を清浄で澄んだ状態に保つことにつながります。

 第二の要因は、お接待という風習です。四国遍路には、遍路者に対して地域住民が無償で金品を与えるという風習があります。筆者自身も歩き遍路の道中、呼び止められ、様々なお接待を受けました。疲労困憊の最中に、見ず知らずの他者から施しを受けると、心の底から素直にありがたいと思えるものです。接待者とのコミュニケーションによって、遍路者の心は解きほぐされ、開かれた状態になっていくのです。

 最後の要因は、札所への道を求めて歩き続けるという行為です。歩き遍路では、札所で納経する時間よりも、次の札所への道を歩んでいる時間の方が圧倒的に長くなります。長い道のりを歩き続けることは身体の節々に痛みを生じさせます。遍路中は、自分の身体の痛みを通して、自分自身の身体に向き合うことができるのです。普段の生活で、私たちは、心と身体を切り離して考えがちですが、心身一如という言葉が示すように、本来心と身体は分かちがたく結びついたものなのです。歩くことで生じる痛みの感覚に対して注意を向け続けると、無自覚であった身体の感覚が日に日に研ぎ澄まされていきます。これによって、心身一如の調和のとれた状態に近づくのです。また、遍路者には、人には話せない悩みや苦しみを抱えたままの人も多くいます。地図や道標をたよりに、次の札所へ通じる道を一心に求め歩み続けることは、自分が抱える悩みや苦しみに対する気づきや答えをたぐり寄せることにつながるのでしょう。

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 以上のように、祈りとお接待が遍路者の心を整え、道を求めて歩み続けることが、遍路者の心を研ぎ澄ますのです。これによって、普段の生活では見えていないこと、感じることができていないことを見抜くことができるようになります。歩き遍路による自己変容や自我の成長は、自分自身の内面をしっかりと見抜く「眼」が養われることによってもたらされるのでしょう。これは、普段は閉ざされて意識できない自己の側面に気づくということです。自己の内的世界を見抜く「眼」をもって、外的な環境世界を見つめるならば、ありふれた風景や自然の中に宿る美しさに気づくことができるのです。自分の内側と外側にある2つの世界が見開かれることによって、遍路者は、内側と外側の間にある見えない世界に足を踏み入れることができるようになるのです。間にある世界では、人と人との縁、時空を超えた弘法大師とのつながり、死者の魂などがまるで自分の目の前にあるものを見るかのうように、イキイキと実感することができるのです。冒頭で紹介したお遍路さんの不思議な体験もこの間の世界での体験なのかもしれません。歩き遍路とは、普段の生活では閉ざされている個人の内面世界と、外的な環境世界の間にある扉を開く旅なのです。

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引用文献

藤原武弘 (2001)  自己過程としての巡礼行動の社会心理学的研究(4)―四国八十八ヶ所遍路の調査的研究― 関西学院大学社会学部紀要, 90, 55-69.

藤原武弘 (2006)  巡礼―四国遍路を中心とした巡礼行動の経験的価値―  小口孝司 (編) 観光の社会心理学 北大路書房  pp.137-152.

福島明子 (2004) 大師の懐を歩く―それぞれの遍路物語― 風間書房

福島明子 (2006) 遍路の意味空間と体験過程 人間文化論叢, 9, 399-409.