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アンフォールドザワールド・アンリミテッド 10

10

 ぼそぼそと聞き取り難い会話がしばらく続いたあと、フータが押入れのふすまを開ける。
「話、終わったのか?」
 窓からの陽光が差し込んできて、私は眉をひそめる。フータのうしろに立つイチゴの顔が、逆光でよく見えない。
「うん、とりあえずマスタには許可してもらえた。ミッチの部屋に行こうか」
 イチゴの部屋を出て板張りの廊下に立つ。さっきキズナニが出てきた一番奥の部屋のふすまは、少しだけ隙間があいたままだ。イチゴが部屋を開ける。
「ミッチ……」
 ちかこが絞り出すような声でつぶやく。
「ミッチくん、ここにいたんだ」
 六畳の畳の部屋の真ん中に白い布団。その上にミッチは寝かされていた。眠っているようにも見える。
「普通なら窓が閉じられた時点で、意識体は本体に戻るはずなんだ。だけどミッチの意識体はまだここにある。本体に返さないと」
「なにをするんですか」
「ちかこちゃんたちはここで待ってて。今から、キズナニのエネルギーをイチゴに移動する。キズナニがただのナニガシに戻ってから、ハニカムユニバース壁内に転送する、って流れかなー」
「で、あとはキズナがうまいこと、ミッチの居住区側に抜けてくれればいいんだけど」
「イチゴ、猫を私の名前で呼ぶなっての。ややこしいだろ」
「キズナニー。ミッチのことわかるよね?」
「ニャー」
「いい? キズナニは今からミッチのところに行くんだ。うまくやってちゃんと戻ってこれたら、ごほうびにおやつたくさんあげるから」
「ニャーン」
「ほんとにわかってるのかなー、この子」
 ほのかがキズナニの頭を撫でる。ごろごろと喉を鳴らすキズナニは、私たちの言葉を理解しているようにも思えない。
「大丈夫なのか、猫なんかに任せて」
「転送場所は指定できるけど、ナニガシがどっち側に抜けるかまでは設定できないし、反対側に抜けたらアウトだな」
「反対側にはなにがあるのですか」
「別の世界。ミッチが住む世界とよく似た、少しだけ違う世界が隣にあるんだよ」
「なるほど、多元宇宙というやつですね」
「こっちではそういう言い方をするの? じゃあたぶんそれが、ハニカムユニバースだよ」
「理解しました」
「すごいなちかこ。なんで理解できるんだ」


 ふと、昨日からちかこが一度もカメラを構えていないのに気づく。フータがキズナニをミッチの胸の上に乗せる。
「猫型ナニガシの触媒となったエネルギーを、イチゴに移動」
「ニャ、ニャナ、ななああぎゅああにゃあああっ!」
 窓の外が薄暗くなり、酸味を帯びた腐敗臭が部屋に漂う。キズナニから灰色の気体が放出し、壁側に立つイチゴを包み込む。ミッチの胸の上にいた猫型ナニガシは姿を変え、膨らみ、幼稚園児くらいの大きさになる。
「ぎゅぎゅあにゃ……」
「うわあ、キズナニかわいくなーい。キモーい」
「ナニガシをハニカムユニバース壁内に転送」
 漆黒の犬のような猿のような、形の定まらない四つん這いの生き物が、霧のように掻き消える。
「うまく、いったのか?」
「ううん、まだだよ。ナニガシは壁の中にいる」
「うぐっ」
「イチゴ?」
 イチゴのうめき声が聞こえて、私たちは振り返る。イチゴが膝から崩れ落ち、自分の体を抱く。
「どうしたの、イチゴくん」
「やばい、なんだこれ……、小型のナニガシだから、エネルギーも小さいはずなのに……」
「おいイチゴ、大丈夫か?」
「……きずな、なんなんだよこのエネルギーは。くっそ、侮ってた。これじゃまるで……」
 そばに駆け寄った私の肩を、イチゴが苦しげにつかむ。まるで、なんだというのだろう。その言葉の続きを遮るように、フータが大きな声を上げる。
「あっ! ナニガシがハニカムユニバースに抜け……っ!」
 どうん!
 雷鳴のような大きな音が響く。イチゴと抱き合うような形で私は身をかがめる。視界が虹色に輝き、点滅し、それから真っ白になる。
「……なあに、ここ」
 ほのかが不安そうにつぶやく。目を開けると私たちは崖の上にいた。潮の匂いがする。
「うわあ、まさかそんな」
「なにが起こったのですか。どこですか、ここは」
「小さな孔でも開ければと思ってたけど、まさかこの部屋丸ごとだなんて」
 私たちの足元は赤黒い岩場だった。強い波が音を立てて崖に打ち付けている。落ちたら確実に死ぬだろうと思える断崖絶壁。
「あー、あそこに隙間があるよ?」
 ほのかが指し示した空間には、猫が一匹通れるくらいの隙間があいていて、板張りの廊下が見える。
「これ、ふすまなのか。私たちの世界とつながってる……?」
「あーあ、これぜったいマスタに怒られるやつだ。こんなに離れたユニバースをつなげちゃうなんて、キズナニめちゃくちゃなことするなあ。てゆうか、イチゴだいじょぶ?」
「大丈夫じゃない。すげえ苦しい。意識体持ってかれる……」
「お、おいイチゴ」
 イチゴが地面に座り込んだまま、私のことを強く抱きしめる。背中に回された手が、私の腰をなでる。
「あー、ぜんぜんへーきそうだねイチゴー」
「ちっ、なんでバレた」
「はあっ? 演技かよ!」
 イチゴのことを突き飛ばすと、よろけた彼は楽しそうに笑っていた。その顔になにか違和感がある。
「いやでも、やばかったのはほんと。いつまで押さえとけるかわかんないから、早いとこエネルギーをナニガシに返さないと」
「あー、イチゴくん。目が赤いよ」
「あっ、ほんとだ」
 イチゴが不思議そうに、自分の目元に手を当てる。いつもは髪の色と同じ水色の瞳が、今は赤く輝いている。
「キズナニの瞳の色と同じだねえ」
「まじで? 似合う?」
「似合う似合うー」
「のんきなこといってる場合じゃねーぞ、イチゴ、ほのか。ミッチを探さないといけないんだろ」
「うん、ミッチの家に行こう。たぶんあれだ」
 イチゴが立ち上がる。切り立った岩場の先端がきらりと光る。崖の端に小さく見えるのが、ミッチの家なのだろうか。こんな海と岩しかないところでミッチは暮らしているのか。こんなところで死にかけたとしたら、だれも助けに来てはくれなさそうで、ミッチのことが心配になる。
「行きましょう」
 ちかこが先頭を切って靴下履きのまま歩き出す。トートバッグの中に入っているはずのカメラを構えようともせずに。

11につづく

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