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#44 座禅体験で世界が広がった話

先日、座禅体験に参加して(2回目)感じたことと、
外へ出てみて世界が広がった話を書きます。

そういえば、半年前、初めての座禅の感想を投稿していました。
前回よりもパワーアップしているはずです。


心の中を「眺めてみる」

座禅をやってみると、
自分の心と体がこんなにもコントロールできないものだ
ということに気付きます。

心も体も「自分のもの」なのに。
たった5分ですら、姿勢は崩れるし、頭の中を空っぽにできない。
次から次へと、あらゆることが頭の中をめぐる。
「◯◯について考えないでおこう」と思っても、
そう思えば思うほど、そのことばかり浮かんできます。

そして、自分の心の中というのは
こんなにも不安定なのかと気付かされます。
ちょっとした物音で集中が途切れる。

私たちが生きている毎日は、
・自分の体調
・気候の変化
・他人からの心無い一言
など、目まぐるしく心にも体にも影響を与えてきます。
そんな毎日で常に心を平穏に保つって不可能です。

不安になったり、腹を立てたり、調子に乗ったり
「いつも湧き上がってくる感情は
こんな風にして起こっているのか」
と心の中を外から眺める感覚が新鮮でした。

そして、「私の心と体よ、毎日お疲れ様」
って言ってあげたくなりました。


浄土真宗のお坊さんとして

私は浄土真宗のお坊さんです。
浄土真宗にはいわゆる修行がなく、座禅をしません。
でも、やってみたい!
これが座禅に参加した理由です。

浄土真宗は他力の教え。
自分の力(自力)で覚りを目指すのではなく、
他力(阿弥陀如来)に頼る教えです。

浄土真宗のお坊さんなのに、
座禅をやってみるという変わり者は私ぐらいかも。


外に出てみると、有り難さに気づく

「海外に出てみると、日本の良さに気づく」とか、
「一人暮らしをしてみると、親の有り難さを知る」
と言います。
正にその感覚でした。

今回の最大の気づきは、
外の世界へ出て視野が広がったこと。

生まれたときから浄土真宗のお寺で育つと、
「他力」が当たり前の世界しか見えません。
「外の世界へ出る」というのは
他力ではない自力の世界を見るということ。

浄土真宗では、とにかく、自力では救われない。
座禅を含め、どれだけ自力の修行をしても往生できないと説かれます。

自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがへば
自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける

親鸞聖人 三帖和讃

でも、ホントにそうなの?って思っちゃう私。
修行をしてみたこともないのに、
「修行では救われないのだから他力に頼りなさい」
と他人(ご門徒)に偉そうに説く。
それって、やっぱり違和感があります。

自力の世界を少しだけでも知ることで、
改めて他力の有り難さを味わえました。

浄土真宗の寺院では
「とにかく中心に阿弥陀さま」
というスタンス。
一方、禅堂での座禅会は、仏さまに手を合わせるというよりも、
「自分と向き合いましょう」
という雰囲気。
このような違いを感じられたのも貴重な気づきでした。

どちらが良いか悪いか、じゃない

日本仏教には色々な宗派があります。
けれど、どれが正しいか/間違っているかではありません。
いろんな道がある。
禅宗か、浄土真宗か。
あるいは、自力か他力か。
どれが自分に合っているかだけの話です。


いかがだったでしょうか。
座禅体験で感じたこと、
そして、私の世界が広がった話を書いてきました。

普段できないことを思い切って体験してみると世界が広がります。
一歩外へ出てみると、
自分にとって当たり前だった世界を
違う視点で見ることができます。
こういう感覚が私は好きなんだと改めて気づきました。

最後までお読みいただきありがとうございました。
素敵な1日をお過ごしください。













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