暮らしの種 『季節の色に目を凝らす』
何かと気鬱になりやすい性質である。
塞ぎ込んでしまうと、ベットの中で日がな一日「ああでもない」「こうでもない」と思い悩んでしまうことになる。それで自動的に収入が発生し、健康が持続され、知識が増えてゆくのならば問題ないのだけれど、そう都合のいいことなどないので、どうにかじゃじゃ馬のような情緒をなだめ、だましだまし生きている。
そんな私にとって、春はやさしい季節である。
というと、おかしなことを言うなあ、と思われるかもしれない。たしかに、春は生活に変化が生じやすい。さらには花粉症や寒暖差などで身体的にも不調をきたすことが多く、何かと適応を求められる時期でもある。
けれど、それ以上に、春の色彩の豊かさ、季節の色に目を凝らすこと、音に耳を澄ますこと。その刹那に、私は救われることが多い。
アスファルトの上に散りゆく桜の花弁。鈍色と桜色が重なり合ったさまは、神秘的な教会のモザイク画のよう。それを、春の澄んだ光に照らされながら、ふと立ち止まって見入ってしまう。
その一瞬、私の心はきれいに沈黙する。
このはっと自然に心を奪われる。はっと感動するという感覚は、からまった憂鬱の糸をほどくのに、案外役に立つ。自然の実直さに心打たれる瞬間、ざわめきがぱたりと止む。ほんのわずかな瞬間、取るに足らない瞬間、なのかもしれない。それでも私の憂鬱は慰められる。春に抱かれて、私は少しだけ軽やかになれる。
春の朝、コップに緑茶を注いで、それを片手に庭で木々を見上げる。清浄な朝の空気を吸い、喜びに満ちた鳥のさえずりに耳を澄ませていると、身体が少しずつ目覚めてゆく。庭でぼんやりと自然の営みを眺めていると、昨夜の憂鬱がどこか遠くの国のことのように思えてくるから不思議である。
あるいは、車窓の奥に広がる海。
そんな光景に、心を奪われる日もある。
昼の名残りと、夕陽。そして、夜の訪れの境界が曖昧になり、バラ色、淡青色、ラベンダー色が幾重もの層になった海と空。
両者は拮抗し、溶け合い、調和してゆく。海と空がまるでガラスの器に載せられた神秘的なゼリーのように、私の目に飛び込んでくる。
思わず身体を捻って、車窓に顔を寄せ、じっと見入ってしまった。うっとりと、恍惚とも言える感情が唇から漏れた。振り返ると、目の前に腰かけた老婦人も、じっと車窓を眺めていることに気づいた。
何でもない黄昏。日々の中のほんのひと欠片。ほんの一日。けれど、その欠片は胸にそっと忍び込み、私の内側をやさしく照らしてくれる。
この時期は、自然がきわめて表情豊かであるために、私はそれらに日々掬いあげられている。
散り際の桜の妖艶な赤さと、清涼な新緑の青さ。うららかな春の綻び。風の匂いも雨の匂いも、何もかもが新しく、人々の門出の季節である春。
是非、皆様もそんな季節の色に目を凝らし、小さな喜びを心のバスケットいっぱいに集めて欲しいと思う。
それがささやかな生きる糧になり、私たちをどこかに誘ってくれるのだろう。
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