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月夜の口紅 1/4

「あら、悠乃ちゃん」

「井山さん、おはようございます」

「おはよう」

 たっぷりと肥えた二の腕を惜しげもなく晒して、左隣の部屋の住人はかちゃりと鍵を回した。

「聞いたわよ、この間の模試で全国の四番だったんでしょう? すごいわねえ、悠乃ちゃんは」

「え、いや、そんなことは」

「卒業したらぜひ紗良にも教えてやってね」

「はあ」

 明らかに首よりも白い顔にてかてかの赤いリップを塗ったおばさんは、左手に新聞紙を携えてドアの中へ消えていった。ぴっちりとしたサイズのTシャツの、テニスウェアのような蛍光色が、残像になって漂う。

 私はというと、昨日日奈子の勧めで親に隠れて買った淡いピンクの色付きリップを塗って、びくびくしながら家を出たところだ。井山さんがお母さんに言いつけたりしたらどうしよう。爪を切りそろえた指で、セーラー服の襟をそっと掴んだ。

 一つ年下の紗良ちゃんは、セーラー服って憧れるよねえ、なんて無邪気に言っていたくせに、今では毎晩、ブレザーのチェックのスカートを三つ折りにしたのを玄関の前でくるくると戻してから家に入っていく。紗良ちゃんの通う高校では、スカートの長さに規則なんてないらしい。

 昔はよく、お揃いの半ズボンで二人で川辺で遊んだ。泥だらけになるから、と言って私のお母さんが止めてからはあんまり会わなくなってしまった。今でも紗良ちゃんは川辺に行くみたいだ。塾帰りに鉢合わせてエレベーターに一緒に乗ると、おばさんにそっくりな濃い赤色のリップを塗って、薄い青色のワイシャツの襟元からシルバーのハートのネックレスを覗かせている。そして必ず、眉をひそめたくなるくらい酸っぱい檸檬の香りがする。

 紗良ちゃんが、塾にも行かずに毎晩遅くまで遊んでいることは、このマンションに住むお母さんたちは皆知っている。もちろん、私のお母さんも。お母さんは必ず言う。悠乃は真面目で勉強ができて、お母さん鼻が高いわ。お隣の紗良ちゃんなんてひどいわね。井山さんも気付いていない振りをしているけれど、いつまで遊ばせているつもりなのかしら。

 まあ、どうでもいいけどねえ、と息を吐こうとして、口が固まっているのに気づく。今まで保湿用のリップクリームさえ夜にしか塗らなかったものだから、上下の唇を引き剥がすとぷるんとした感触があるのが、なんだか気持ち悪かった。おばさんに見せた薄ら笑いが、顔に貼り付いてしまった気がする。

 エレベーターの鏡を覗き込むと、青白い顔で優しい桜色が浮いていた。

「わあ、悠乃、リップクリーム買ったんだ! やっぱり少し顔色がよく見えて可愛いよ」

 教室につくとすぐに気付いて、日奈子が声をかけてくれる。耳の上で短い髪の毛を綺麗に編み込んで、毛先だけふわりとはねている。うちの高校は禁止されているけれど、何人かの女の子たちは先生に見つからない程度にお化粧をしている。日奈子も最近、目がぱっちりしてきた。

「そうかな」

なんてはにかんだつもりが、さっきの引き攣った笑い方になっていることに気がつく。

 嘘に決まっている。だって全然、顔色よく見えなかったもん。唇だけが変にキラキラしていて、他はいつも通り。精一杯の勇気で買ったはずだったのに。私にはきっと、他の女の子たちが当たり前に楽しんでいることが、うまくできないんだ。

「うん! 来年は大学生になるんだし、少しずつお化粧とかもできるようになったらいいよね」

 くるんと上を向いた睫毛が揺れる。さらさらとそれを隠すように落ちてくる髪の毛が、根元の方は実は少し茶色くなっているのを、私は知っている。

「私、朝面談なんだよね」

「まじか、いってらっしゃーい」

「うん、えっと」

 日奈子は可愛いよ。そう言いかけて、やめた。その言葉を待ってる、であろう彼女は、きょとんと首を傾げて、サーモンピンクの唇を少し、突き出した。

「…いってきます」

「え、…うん」

 くるりと振り返って、駆け足で教室を出る。面談室目がけて、階段を駆け下りる。

 間があった。間があった。

 可愛いよ、なんて無責任に言っておいて、本当は自分が言われるのを待ってる。

 可愛いよ。何で言わなかったんだろう。日奈子は可愛いよ。は、を使うのがいいんだ。嬉しそうにするの。

 でもね、そういうの関係なく、日奈子は本当に、可愛いよ。私はそう思ってる。私、は。

「おーい、どうしたの」

「え」

「金森さんって、心配よねえ」

「は?」

 年齢不詳の小野先生は、ふんわりマットなレッドブラウンの唇を少し開いて、ふうっと息を吐いた。

「青春してなさそうだもの」

 担任がこの人になってから、私の面談時間は他の人と同じくらいになった。今までの担任の先生は、金森は問題ない、と二分で済ませるタイプと、金森の進路は俺達の希望だから!と熱くなって、三十分ほど解放してくれないタイプの二種類だった。でもこの人は、誰にでも十五分きっかり、自分の愚痴を聞かせて終わることで有名だった。

「あたしの青春時代なんてねえ、そりゃあ凄かったのよ」

「そうなんですか」

「そうよ、男の子がいっぱい寄ってきたのよ」

「先生、美人ですもんね」

 私は大真面目に言ったつもりだったのに、先生はぷはっと吹き出して笑った。あ、この人、笑うと目尻に皺が寄るな。それに、唇の色は印象的だけれど、よく見るとそれ以外のお化粧は薄い。井山さんのギラギラの涙袋を思い浮かべて、私も何となく可笑しくなって、口角を緩めた。

「金森さんはさ、勉強が好きなの?」

「えっと、まあ」

「じゃあいいけど。若いうちにしかできないこと、いっぱいあるからね。逆に、若いときなら何だってできるの。何したって大抵許されるんだから。でもね、大人になるとだめ。自分で責任の取れることしかできないの。私だってもう今じゃつまんない女になっちゃって」

「はあ」

「はは、そこは否定しなよ。さっき美人って言ってくれたのに」

 先生が眉をひそめて顔を近づけると、朝の予鈴が鳴った。透き通った瞳に、ぽかりと口を開けた私が映っている。

「あーあ、若いっていいなあ。青春っていいなあ。ほら、行った行った」

 若いっていいなあ。

 手でしっしと追い払われて、がらがらと面談室の扉を閉める。

 若いっていいなあ。青春っていいなあ。

 頭で、何度も反芻した。

 金森さんは、青春してなさそうだもの。若いっていいなあ。

 予鈴は済んでいるから、教室へと急ぐ。今日もまた、勉強ばかりの一日が始まる。放課後には塾に直行して、授業を受けて、ぎりぎりまで自習室で勉強して、夜遅くに家に帰る。学校の先生も塾の先生も、模試の成績を褒めてくれた。

 全国順位に載るなんてすごいじゃないか。四番でも十分だ。でも、一番だって目指せるんだからな。気を抜かないで、上だけを見て勉強しろよ。金森はできるんだから。まだ頑張れる。

 若いときなら何だってできるの。若いっていいなあ。先生のだるそうな声が、耳にこびりついていた。


※続く

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