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深夜の独り言 37

今日からやっと二十歳です。

2001年11月13日火曜日、21世紀最初の学年に、私は生まれました。へび年のさそり座です。11月12日に父親の誕生日ケーキを買いに行った母親が、そのまま産気づいて、夜中に生まれたと聞きました。大好きなぱぱと一日違いの誕生日。

五つ上の姉は私のほっぺたをぷにぷにと突いては、おもしろーいと笑いました。私がはいはいをするようになって、姉の頬を何度も叩くと、父は初めての兄弟喧嘩ですと動画を回しました。たくさんある動画の中で、ほとんどの時間、私は父とお留守番をしていて、静かに新聞を読む父の膝を何度も叩いていました。

発語は早かったようですが、比較的無口な子どもでした。姉がよく喋るぶん、それをにこにこと眺めて、姉のためにボールを運んだり砂を払ったりしていました。姉の後ろをついて回るばかりで、自分から何かしようとすることはあまりないようでした。でもときどき、カメラの奥の父に向かって静かににっこりと笑いました。

幼い頃は、よく熱を出していました。毎年誕生日に溶連菌ようれんきんになり、夏になると大きな風邪を引きました。扁桃腺へんとうせんが腫れやすく、母が声変じゃない?と聞くときは大抵高熱でした。貧血にもよくなりました。通っていたミニバスでしょっちゅう倒れていました。そのたびに、母が怒りながら迎えに来ました。

反して、内面は強く育ったと思います。父が楽しく勉強を教えてくれたので、小学生のころにはすでに高校受験の問題集を解いていました。負けず嫌いだったので、解けないの?と言われると、解けるもん!と意地を張って、がむしゃらに勉強をしました。ピアノやそろばんや水泳や空手や、いろんな習い事をさせてもらっていました。四年生で行われた二分の一成人式では、学年合唱のピアノ伴奏をしました。わかる、できる、が自信になって、私を形作っていました。

中学生では自分から生徒会長をやったりして、家族を驚かせました。この頃から、将来は教師になりたいと家族に伝えていました。卒業式の答辞で、私は両親に感謝を読み上げました。いつも言えないけれど、今までありがとうと。これからもよろしくと。十五歳でした。

高校、大学と、夢に向かって走ってきました。たくさんのことがありました。頑張って入った先の高校で、周りのレベルが突然上がって挫折を味わったり。大学受験に失敗をしたり。人間関係で、初めてうまくいかないと思うことがあったり。でもそういうことは、家族にはあまり言えませんでした。母と喧嘩することも少なくなり、家ではただ、当たり障りのない世間話でにこにことしています。

いつも、言えなかった。大切にされていることは痛いほどわかっています。習い事をさせてくれて、塾に通わせてくれて、大学へ行かせてくれて、不自由なく生活させてくれて、ここまで、立派に育ててくれて。自分で言うことではありませんが、私は立派に育ったと思います。一緒に勉強をしてくれた父や、私の将来のために環境をつくってくれた母のおかげです。まだわかりませんが、教師になるという夢もあと少しのところまできています。私を信頼してくれる大好きなひとたちもできました。愛をもらって育ったからこそ、いっぱいの愛を注ぐことができます。

いつも、わかっていました。だから期待以上の姿を見せたかった。喜んでほしかった。結果が出るまで何も言わないのはそのせいでした。今日なら、言える気がします。

育ててくれてありがとうと、初めて、壇のうえからでなく目の前で、伝えようと思います。今ではもうたくさんの言葉をもっている私だけれど、家族の前ではいつだって、無口でおとなしい末っ子でした。やるときはやる、立派な大人の第一歩として、ありがとうを言いたいです。

思えば不思議でなりません。ビデオに映る小さな笑顔が私だなんて。親の目には、きっと私の知らない私がたくさん見えていたのでしょう。見ていてくれたことを、嬉しく思います。ビデオの中の私も、いつも自分を見守ってくれる大好きなぱぱに向かって、にっこりと嬉しそうに笑います。

11月13日。なんでもないこの一日が、私が勇気を出すきっかけになります。両親のおかげで、私は私でいられるし、私を好きでいられるし、なんだかんだ、幸せです。

小さな幸せを噛みしめるような、ちっぽけな人間でありたいです。そしてそのあたたかな幸せを、滲ませるように静かに誰かに注ぐ、父のような人間になりたいです。今後の人生の目標です。

まずは一歩から。とりあえず、家族や大好きなひとたちとお酒を飲み交わそうかな。最近とても精神的にきついことが多いので、幸せをチャージしたいです。


成人する夜に、



深夜の独り言。

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