見出し画像

重なる、夏

 Tシャツの内側で汗が一筋流れた。襟を掴んでぱたぱたする。特急電車が通り抜ける。すぐ隣に立った女の子のスカートがふわりと舞う。

 灰色の壁に大きな広告が立ち並んでいる。毎日同じだ。美容クリニックの広告では美しい女性が微笑んでいて、僕はいつもこのひとの元の顔を想像しようとする。でも、できない。どこが手を入れられていて、どこがそうでないのか、僕にはわからなかった。もしかしたらただ広告に採用されただけで、整形はしていないのかもしれない。いずれにしろ、彼女が自分の顔を気に入っていたらいいなと思う。

 隣の女の子が、扇風機を取り出して、つける。機械音まで涼しそうに聞こえるなんて、暑さで狂いそうだ。

 夏休みなのに学校だなんてついていない。教員免許のための授業たちはみなそれなりに面白かったが、ほとんどの学生が休みを満喫するなかで受けるにはいささかつまらなかった。

 でも、教員になりたいのだから、仕方がない。どんなに大変でも、諦める気はなかった。彼女と約束したから。

 いい先生に、なれるよ。

 暑い夏は僕に遠い記憶を運んでくる。

 ユウくんは、ひとの気持ちを想像するのが上手だから。きっと、いい先生になれる。

 そう言ってくれた彼女の顔を、ぼんやりと思い浮かべる。優しそうな女の子だった。夏の陽炎の見せる記憶はなんとなく歪んでいて、細部はくすんでいる。でも、心のなかに、ちゃんといる。

 絶対、夢を叶えてね。私が応援してるんだから、絶対だよ。

 そう言って彼女は笑った。僕は頑張ると答えて、にやりと笑い返した。

 また、汗が首を伝う。広告の女性が揺らめいた。

 リュックの横のポケットから、ペットボトルを抜き取って蓋を開けた。隣に立つ女の子が息を吸う。マスクをそっとずらして、水を一口。

 あ、と、聞こえた気がした。

 ―2番線、到着の電車は、各駅停車〇〇行きです。〇〇で特急〇〇行きにお乗り換えができます。

 僕は降りてくる人の邪魔にならないように端に避ける。女の子も、反対側の端に避ける。

 ちらりと見た。目が、合う。

 優しそうな女の子。

 懐かしい、気がした。

 電車に乗り込んで、でもその間ずっと女の子を目で追っていた。女の子は目を伏せて、列を抜けて、電車を見送った。ドアが閉まる。

 全く見たことのない、知らない女の子だった。僕はドアに張り付いて彼女を見つめた。電車が動き出す。女の子のスカートが、ふわりと舞う。

 暑い夏は僕に幻を運んでくる。

 口の中でそっと、いい先生になるよ、と呟いた。

最後まで読んでくださってありがとうございます。励みになっています!