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虫かご

 …朝、か。ふと目を覚ますと、白、白、白の世界。そこに飛び込んでくるビビットカラー。カーテンだけが鮮やかな紫色の、この不気味な部屋に、ああそうか、私は閉じ込められてしまったんだ。

 一昨日のことだった。高熱を出して、咳が止まらなくて、頭がガンガンして、目は血走って、そして、全身の血管が、紫色に浮かび上がっていた。慌てて病院へ行った。私を見た受付の看護師さんはぎょっとして、一番最初に、一番奥の診察室へ呼ぶ。

「ヨウセイですね」

 三重にマスクをした医者が言った。私に触れるのも嫌そうだった。ヨウセイ。陽性反応が出た、ということか。何の? 隣を見ると、母も私と目を合わせないように下を向いていた。

 どういうことだろうか。私はなんの病気なの? どうして、誰も、私の目を見ないの?

 そのまま、私は病院に一晩入院した。頭が朦朧としてよくわからないが、母が私の荷物を用意してくれたらしい。いつもの歯ブラシ、いつものコップ、でも服だけは、いつも着ているもこもこの可愛いパジャマじゃなくて、真っ白のピシーっとしたパジャマ。ベッドに並べているぬいぐるみたちも連れてきてくれた。だけどそこは、可愛い縁取りのお姫様みたいなベッドじゃなくて、簡素な病院ベッド。

 初めての入院は何事もなく終わった。味が薄いと聞いていた病院食も、潰れそうな喉には丁度良かった。でも、別段症状は良くならなかった。相変わらず、全身には蜘蛛の巣のように張り巡らされた紫の血管が浮き出ていた。

 帰れるんだと思っていた。入院は一晩だけと言われていたから。家族がみんな迎えに来てくれた。病院の車で送ってくれるというので乗り込む。四人家族だから、後ろに三人座らなくちゃいけないと思って、端っこに詰める。それなのに、誰も乗ってこない。

「最後まで諦めちゃだめだぞ」

「何もできなくて、ごめんね」

「絶対、戻ってくるんだよ」

 ぱぱが、ままが、ねえちゃんが、言った。

「え?」

 ドアが、閉まる。泣き崩れる三人。なんで、なんで、なんで。家に帰るんじゃなかったの?

 言われるがままにここに着いた。真っ白な服を着て、ぬいぐるみやら歯ブラシやらすべて置いてきて、私のものは何もないこの部屋に。ドアのところに、紙が貼ってあった。その一番上に、太文字で、

「カーテンに触るな」

 その下には、小さな文字で、

「食事は一日三回、ポスト。合図はノック二回、五分以内に回収せよ」

 どうやら、ルールのようだった。ドアの横に、大きめのポストがある。カーテンに触るな、か。窓を開けてはいけないのか。感染症なのかな。隔離ってやつかな。結核やハンセン病の人たちは昔、隔離病棟に入れられたって授業で習ったな。差別が問題になったって。

 部屋の勝手を知ろうと思い散策していると、一番奥の部屋に、それはあった。濃い紫色のカーテン。白い景色に慣れすぎて、その鮮やかな紫は、風もないのにゆらゆら揺れているように見える。

 落ち着かない。ただベッドはこの部屋にあるから、ここで寝ないといけないみたいだ。

 その他に窓はないようだった。カーテンには触れない。つまり、外の世界はわからない。太陽光は全てカーテンに遮られているから、光も入ってこない。これでは、感覚が狂ってしまう。

 コンコン、とノックが聞こえる。時計を見ようとして、気付く。どうやらこの部屋には時計もないらしい。時間すらもわからない。食事は喉を通らなかった。適当に時間を過ごして、ぼーっとして、そしてこの部屋で、昨日は眠りについたのだった。

 白い世界。誰とも、どんな色とも隔離された私の世界。熱は止まない。鏡には、真っ白な服に身を包んだ紫色の私が映る。浮き出た血管の色は、どんどん濃くなるようだ。私は何の病気なの? どうしたら治るの? いつ、ここから出してもらえるの?

 コンコン。昨日は何も食べられなかったから、さすがに何か入れておこうと思って、ポストから取り出す。そのまま、ドアの前の部屋で食事を取る。野菜ばかりの、質素な食事だった。美味しくはないが、これが私の命を繋いでいるのだな、と思うと、大事な食事だった。

「命…?」

 声に出してしまった。余りにもか細い声だった。

 私は、死ぬのだろうか。こんな部屋で、一人ぼっちで、死んでしまうのだろうか。そう思ったら、急に涙が溢れ出した。止まらない、止まらない。真っ白な大きなクッションに、顔を埋めて泣いた。誰も慰めてなんてくれなかった。クッションが濡れていく。真っ白なクッションは濡れたってやっぱり白くて。ここは全て白。白、白、白。だけど。

 視界の隅で、何かが動いた。この部屋に、命あるものは私だけのはずなのに。その何かは、紫色をしていた。ひらひらと動くと、クッションの角に止まった。

「ぎゃぁっ」

 蝶だった。

 やけにでかい蝶だった。

 全身紫色の、手のひら二枚くらいの大きさの、蝶だった。

 私は蝶が苦手だったから、涙なんて吹っ飛んだ。嫌、気持ち悪い、来ないで。蝶は優しげだった。私は部屋を飛び出した。逃げて、逃げて、一番奥の部屋まで来て、扉を閉めて、後ろを振り返った。


 真っ白なカーテンから、一斉に蝶が舞った。

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