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青いキャンバス

 砂利道には、薄いスニーカーで歩くとときどき足裏が痛い程度に石ころが転がっていた。行く手の地平線の先に眩しい太陽が光っていて、帽子を目深に被り直す。走って横を追い越していくひと、同じ速さで歩いていくひと、しゃがんで沿道の小さな花を見つめているひと。そこまで見て初めて、沿道に花が咲いていることに気がつく。

 世の中、見えていないことばっかりだなあ。

 わたしはのんびりと歩く。風が気持ちいい。どこかから優しく香る海の匂いが、わたしにこんにちはと囁いた。わたしも柔らかな笑顔を返す。とても穏やかな気持ち。ふわふわとして、さみしい、穏やかな。

「はなちゃん」

 ああ。優しい気持ちでこの声を聞けたことを、嬉しく思う。わたしは口角をあげて、空を見上げる。

 大きく広がった真っ青なキャンバスに、何を描こうか。眩しい光を放つあの太陽を、何に例えよう。わたしは自由だ。試しに、お母さんの温かい笑顔を思い浮かべてみる。その隣に、お父さんの少し強張った笑顔。ふたりがこんなに近くに並んでいるなんて不自然で可笑しくって、ふふ、と笑いが溢れる。ああ、想像の中では、何を思い浮かべたっていいんだ。

 次に、あのひとの手を描く。指が長くて、手のひらも大きくて、わたしの頭に向かっておそるおそる伸びてくる。太陽がきらり、煌めく。わたしに涙が滲んだら、あのひとの手のひらが優しく触れる。大きな雲が流れてきて、本当に撫でてくれるみたいだ。大丈夫。僕がいつでもはなちゃんのそばにいるよ。だから、安心して。

 ゆったりと歩く。辺りにはいろんなひとがいる。注意深く見ると、それぞれに、いろんな物語を抱えている。

 見上げれば大きなキャンバスいっぱいに、彼の愛が見える。委ねていいんだ。寄りかかっていいんだ。愛されて、いいんだ。わたしは自由だから、そんなことを、今も思っている。

「はなちゃん」

 ふふ、と笑う。いろんなものをくれた。温かい居場所。明るい未来を想像すること。穏やかな、優しい愛。これ以上何も望めないくらいに、たくさんのものをもらった。

「たいきくん」

 わたしは振り返る。無理に速度を合わせて歩いてくれていた彼に、精一杯の笑顔を。

「はなちゃん、ごめんね」

 悲しそうに言う彼を見たら、また、泣きそうになった。必死にこらえて、笑う。

「ううん。たいきくん、今まで、ありがとう」

 世の中、見えていないことばっかりだったんだなあ。

 空いっぱいに彼の愛を感じた。実際にはいつからか、少しずつ、少しずつ小さくなっていたそれを、わたしは無理矢理にでも、空いっぱいだと感じていたかった。お母さんも、お父さんも、きっとそうやって目を背けていたんだなあ。

 あのひとが去っていく。わたしを救ってくれたあのひとが、私に背を向けて、すたすたと去っていく。さようなら。わたしはもう、空にあなたを描かないでしょう。

 たとえ涙が滲んでも、あのひとの手のひらは浮かべない。わたしはあのひととは反対のほうへ、鼻歌を歌いながら、時折、鼻をすすりながら、軽やかに砂利道を歩き続けていた。

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