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月夜の口紅 エピローグ

月夜の口紅 1/4

 冬場は日が暮れるのが早い。住野くんが小さなあくびをして、もう外真っ暗じゃん、と呟いた。交換ノートを閉じて立ち上がる。

「そろそろ昇降口閉まるから早く帰りなよ」

 嫌がる住野くんを急かす。ボールペンを、かち、かち、かち。

「わかったよ、帰ればいいんでしょ。帰るから怒らないでくださいよ」

 住野くんは出していた筆箱と裏紙の束を鞄に詰め込んで、きいと音を立てながら椅子を引いた。

「さよなら、金森先生」

「はい、さようなら。気をつけてね」

 思春期真っ盛りの子どもたちは、今日も暗い廊下を駆け抜けていく。窓の外を見上げると、今夜はあの日と同じ、綺麗な満月が寂しく浮かんでいる。

 生徒たちひとりひとりと始めた交換ノートは、みんなそれぞれのペースでいろんなことを書いて持ってくる。私も時間をかけて、たくさんの思いを返す。

 住野くんのノートをもう一度、開く。

《終わりが見えないんだ》

 住野くんの声が、その文字をなぞる。震えながら、自分の言葉を紡いでいく。

《どれだけやっても、まだやれる、頑張れって、言われる。何でもできるんだから、今のうちに頑張りなさいって、みんな言うんだ。でもこれ以上、どう頑張ったらいいのかわからない》

 ああ、と思う。わかるよ、と言いかけて、口をつぐむ。わかるわけない、他人だもの。私の経験してきたことと彼が経験していることは似ているようできっと違うだろう。それに同じことだったとしても、受け取り方が違うのだろう。

 ペンを取り出して書き込む。

《自分が前向きにやりたいって思えるところまでやろう。それ以上は頑張りすぎかも》

 少し考えてから、大きく付け足した。

《住野くんはすごく頑張っていて偉いなって、いつも思っているよ》

 はなまるを描いて、息をついた。頑張ったね、偉いね。もうじゅうぶん、そのままで、あなたは大切な存在なんだよ。あのときの自分が欲しかった言葉。これからは私が、みんなに言ってあげたい。

 大きな月が、私や、住野くんや、他のいろんな人たちを同じように照らすべく静かに佇んでいる。窓を開けると風が吹いて、微かに檸檬の香りがした、気がした。

 紗良ちゃん、と呟く。大人になったら何でも好きなことができると言っていた紗良ちゃんは、今、何をしているだろう。

 小野先生の言うとおり、責任は大人になるにつれ重たくなってきた。教師として、子どもたちの未来に影響を与える身として、それを強く感じている。自分で責任を取れることしかできない、それは正しいと思う。でも、やりたいことができないというのは嘘だった。

 やりたいこと、好きなことの責任を取れるように、足掻けばいい。大人だって、子どもだって、それは変わらないんだろう。一人では生きていけないから、ときには周りの助けを借りることもある。それだって、大人も子どももないんだろう。

 確かに若いことは素敵なことだ。これから、たくさんの出会いと気付きがあるから。子どもたちがそれに気が付けるように、私も一緒に学びながら、導いていきたい。

「紗良ちゃん」

 檸檬の香りが鮮明に蘇る。どうか紗良ちゃんが、今、好きなことを自由にできていますように。

 あはは、悠乃ちゃんって、ほんと、可笑しい。

 紗良ちゃんが笑う声がする。私もつられて、笑う。暗くなって静かな廊下に、ふふふ、と声が響く。

 優しい月に向かって、真っ赤なリップをそっと引き上げてみせた。

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