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君の話

 「それじゃあ、君の話をしようか」

 おもむろに話し始めたその人は、チェーン店ではない高そうな喫茶店でアップルパイを二つ頼みました。何が「それじゃあ」なのかも、その人が誰なのかも知らないまま、私は俯きます。

「君、お名前はなんだい」

「…」

知らない人について行ってはいけないと、お母さんにはよく言われたものです。今目の前で姿勢よく座っているこの人は年齢も性別も謎に包まれていました。すごく年上の大人の女の人のようにも見えるし、まだ私とそう年の変わらない、高校生の男の子くらいにも見えました。白い髭の生えたお爺さんが持ってきてくださったお冷やは、ほんのり柑橘類の香りがしました。

「わかった。じゃあ仮に、君の名前をリサとしよう」

「えっ」

「仮に、だよ」

ふっと口角をあげたその人は、よく見ると、とても綺麗な顔をしているのでした。きりっとした一重の瞼の下で、三白眼の瞳が浮いています。長い睫毛はその人が瞬きをするたびに大きく影を落とし、鼻は高く、真っ直ぐに伸びていました。ほんの微かに見えるえくぼと、リップクリームが塗られてしっとりした薄めの唇は、どこかで見たことのあるような、ないような、モデルさんのような顔立ちをしています。中性的な、壊れそうな美しさです。

「リサはどうして泣いていたのかい」

さっきまで私は、公園のベンチで一人しくしくと泣いていました。音もなく現れたこの人が、すっと手を引いてここまで連れてきたのです。その手のひんやりとした感覚が心地良くて、何も言わずについて来てしまいました。お母さんが知ったら怒るでしょうか。ぼんやりと、透き通るブルーのグラスを眺めます。

「母が死んだんだ」

私が黙っているので、その人が言いました。私は驚いて、顔を凝視しました。すぐ上のペンダントソケットが放つ黄色い光で、睫毛の長い影が際立ちます。気の強そうなはっきりとした顔立ちのその人が見せた、何とも言えない曖昧な表情に、私は思わず見とれてしまいました。私はお父さんと一緒で、美しいものが大好きです。

「もうずっと、会っていないんだけれど」

私の話をすると言っていたのに、この人の話を始めるようです。白い髭のお爺さんが、焼き立てのアップルパイを運んでくださいました。パイ生地の表面がてかてかと光る、美味しそうなアップルパイです。甘酸っぱい林檎と、ふんわりとカスタードが香って、涙が滲みます。さっきまで泣いていたもので、涙腺が緩んでしまったようです。

「小さい頃に、両親が離婚してね。よくある話だろう」

その人は背筋をぴんと伸ばしたまま、綺麗な所作でアップルパイにフォークを入れました。とても柔らかく煮てあるのか、林檎のところで止まることもなく、するりと切れ目を入れました。しかし、どこか震えているようにも見えました。

「母は再婚して、相手には娘がいたらしい。それが、リサって名前なんだと」

食べなさい、と勧めてくれたので、私も銀の細いスプーンをアップルパイに滑らせます。サクッとしたパイ生地が、林檎の瑞々しい感触が、それらを繋ぐ甘いカスタードが、私の一部となりました。頭では味がわかるのに、私はそれを飲み込んだのだな、としか感じませんでした。鼻をすっと抜けていくのは、つんとしょっぱい、涙の香り。

 しばらく無言で食べてから、その人は私の目を真っ直ぐに見て言いました。

「母は、幸せに死んだと思うかい?」

その瞳は、温かい黄色の光に照らされて爛々と輝いています。私は確信を持って、口を開きました。

「はい」

そうか、と優しく笑った口元を見て、涙が溢れました。口角のすぐ横に控えめにできる小さなえくぼ。

 「リサ」

男にしては高く、女にしては低い声で、歌うように私の名前を呼びました。アップルパイの最後の一口を幸せそうに頬張るその人は、死んだ私の美しいお母さんによく似ていました。

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