見出し画像

強がりの挨拶

 ドアを開けると、いつも通りの明るい声で「こんにちは」が聞こえる。それがどれほど素敵なことか、毎日言われてみないときっとわからないと思う。

「お、荒谷、こんにちは」

「こんにちは、村山さん」

 事務の村山さんは生徒全員の顔と名前を覚えているって噂だ。あらやぁ、と語尾を伸ばした感じで親しげに話しかけてくれる。最初からこの距離感だったけれど、不思議と嫌な感じはしなかった。

「前回の模試、返ってきてるよ」

「え、ほんとですか? やだなあ」

「荒谷は確か割と良かった気がするけど」

「え、ほんとですか!」

「ほんと、ほんと、たぶん」

 村山さんがにやっと笑って、それほんとかなあ、なんて私もにやにやする。そんなこんなで、受付を通り過ぎるのに二分要する。

「じゃ、今日も頑張って」

「はい!」

 まだ誰もいない自習室のお気に入りの席を確保して、筆箱やらノートやらを広げる。この塾の自習室は一つの席がすごく広くて快適だから、受験期に突入してからは毎日、一日中ここにいる。数学の過去問を取り出して、タイマーを百五十分セットする。

 問題を解いている間は時間が経つのが恐ろしく早い。数学と戦っていたら、あっという間に午前中が終わった。財布を取り出して、下のコンビニに向かう。

「あ、荒谷、待って」

 受付で村山さんに引き止められて、書類を渡される。英語のクラスを変更したいと前から言っていたので、その手続きを簡単に済ませてくれた。

「上のクラスじゃ大変だろうけど頑張りなよ」

「もちろんです! やったりますよ」

「おっ 荒谷なら余裕か〜」

 本当は少し不安だったけれど、村山さんには笑顔で接していたい。先生たちには点数とか具体的な数値で心配されるせいでできないから、せめて精神面で心配してくれる村山さんにだけは強がっていたい。

 村山さんの「いってらっしゃい」を聞きながら塾を出て、コンビニでおにぎりを買って、「おかえりなさい」を聞いた。午後は理科を解いた。お気に入りの席で、お気に入りの音楽と一緒に勉強した。授業の時間になると、筆箱とノートだけ持って教室に移動した。授業が終わるとすぐ、自習室に戻ってきて復習をする。

 さっきの授業で返された、模試結果を見返す。確かに良い教科もあったけれど、クラス変更をした肝心の英語は下がっていて、先生にはやっぱりクラスは上げないほうがいいんじゃないか、なんて言われた。私の志望校を志望しているひとはみんな上のクラスで良い成績を残しているのに、私はそのクラスに入るのもやっとなんだ。苦手科目ではあるけれど、これはさすがに辛い。

「荒谷、もう十時だから帰る支度して」

 とんとんと机を叩かれて見ると、村山さんが「おつかれさま」と笑った。本当に疲れた。今日もあっという間に終わってしまう。どんどん近づいてくる受験。でも大丈夫、まだ頑張れる、と自分に言い聞かせて、村山さんに笑顔を返す。

「さようなら」

 わざと元気な声を出すと、本当に元気が出てきた。自習室を一番最後に出て、電気を消す。背中に「さようなら」が聞こえる。村山さんの笑顔と「頑張りなよ」の言葉を思い出して、私は真っ直ぐに前を向いて歩き出した。

受験生、受験業界のみなさまおつかれさまです。大学受験はまだ終わっていない方も多いでしょうね。
私の生徒たちもたくさん頑張りました。一緒に喜ばせてくれてありがとう、一緒に悔やませてくれてありがとうと言いたいです。
自分の受験生時代を思い出して、たくさんの方に支えられたなあと感じています。このお話はほぼ私の実話でした。読んでくださってありがとうございます。

最後まで読んでくださってありがとうございます。励みになっています!