月夜の口紅 3/4
真っ暗な夜。風もなくて、雲が分厚くて、月は隠れて、じめじめした夜。汗が滲んでいく。
川へ行く道は足が覚えている。風が湿ってきた。セーラー服の襟は風になびいて、リボンがめくれ返って首をなぞる。
あれ、私、鞄はどうしたかな。授業のノートが詰まった学生鞄。今日習ったところを復習しなくちゃいけないのに。玄関に置いてきたんだっけ、それとも、走っている途中で落としたのかな。もう、どうでもいいか。スカートのポケットに携帯が入っている。きっとお母さんが連絡してくるだろうこれも、どこかに放り投げてしまえれば、どんなにか楽だろう。
道が開けて、髪の毛は振り乱れて、雲の向こうの月は、情けない私を見ないふりしている。
辿り着いた川辺の広場で、私はふっと笑った。何でここにいると思ったんだろう。馬鹿みたい。でも駅前ならいるかもね。おばさんは紗良ちゃんに会えただろうか。コンクリートの階段に腰掛ける。
若いって、紗良ちゃんだよなあ、と思う。この狭いマンションの噂話なんて知ってか知らずか、毎晩遅くまで遊んで、好きな格好をして。
若いっていいなあ。
日奈子だってそうだ。進学校の勉強と両立させて、可愛らしく飾ることを覚えている。
青春っていいなあ。
大人になるとだめ。自分で責任の取れることしかできないの。
じゃあ、責任を取らなくてもいいように、慎重に、慎重に生きている私って何?
プルルル、と携帯が鳴った。お母さんかな、と思って見ると、日奈子からだった。
「もしもし」
「もしもし、悠乃? 何してんの、悠乃ママから電話きて、いなくなったって」
「はは、どうしよ、走ってきちゃった」
「悠乃」
その声は、悲しそうに震えていた。
「ごめんね、私が、リップクリームとか勧めたから」
「ねえ日奈子」
「お母さん、怒ってたでしょう」
「日奈子」
鼻を啜る音が聞こえて、電話の向こうは少し静かになった。
「最近、前よりも可愛くなったよね。何かしてるの? 私にも今度、教えてね」
「え?」
「卑屈になるの、やめたの、私」
少し早口に、言った。背筋がすっと伸びて、風が吹いて、分厚い雲が流れて、ぽっかりと、月が現れる。ああ、見つかった、と、ぼんやりと思った。
「…そっか」
涙混じりのくせに、なんだか明るいその声を聞いて、私にも少し涙が滲んだ。
真っ暗だった川辺は、雲の合間から差し込む月の光に照らされて、ほんのり明るくなった。背の高い草が揺れているのが見える。紗良ちゃんと二人、泥だらけで駆け回った川辺。
「え、ちょっと」
「何? 悠乃」
「ごめん切るね、またね」
「え?」
携帯を放り出して草むらへと入っていく。今、今、何か、光ったよね。キラって、え、何、今の。
草を掻き分けて、走って、よろけて、走って、躓いて、掻き分けて、走って。ひらけた川辺の砂利に出る。ここはもうすぐ目の前に川があって、間違って落ちる危険があるから、夜には来ちゃいけないって何回も言われた。湿った石ころが月明かりで反射して、艶々して綺麗だ。私たちのお気に入りだった一際大きな石、というよりこれは岩っていうのかな、その上に、キラリ光るもの。
「紗良ちゃんだ」
ハートのネックレス。別によくあるデザインの、華奢なチェーンだけれど、これは絶対紗良ちゃんのだ、と思った。そっと持ち上げて、辺りを見回す。紗良ちゃんはどこ? こんなところにネックレスを置いて、まさか。
「紗良ちゃんっ」
まさか、まさか。恐る恐る足を進めて、艶々の砂利の上を歩く。嘘だよね。疲れ果てた井山さんの顔が浮かぶ。だめだよ、そんなの。まだ、若いんだから。だんだん水の音が聞こえてくる。ぴちゃぴちゃと飛び跳ねる音。紗良ちゃん、戻ってきて。
ざぷん、と音がして、ローファーが水没した。そっか、水の音は、私の足音だったのか。これ以上はさすがにまずいと思って、一歩後ろに下がる。と、そこでつるんと足を滑らせて、後ろにひっくり返った。濡れた砂利に腰を強く打ち付けて、思わず叫んだ。
「痛いっ!」
「何してんの」
「へ…」
ギリギリ浮いていた頭の力を抜いて、こてんと石ころにぶつけるとそこには紗良ちゃんがいた。
「相変わらずださいねえ、悠乃ちゃんは」
暗くてよく見えないけれど、確かに紗良ちゃんだった。てかてかの赤いリップが、にやりと笑った。
「紗良、ちゃん。何、して」
「こっちの台詞でしょ、それ。誰かが一人で川ん中入ってくし、ネックレスは無くなってるしで見に来てみたら」
ほら、と言って、紗良ちゃんは屈んだ。月明かりの中で、華奢な白い手がぼうっと浮かんで、ふわりと檸檬の香りがした。
仰向けに寝転んで、背面がびしょびしょの私は、ただしばし唖然として、その手を見つめていた。生きてるんだよね、この子。そう考えて、なんだか可笑しかった。あはは、早とちりだったわけね。なあんだ。ふふ、ふふふ。
「何笑ってんの。早く立ちなよ」
眉をひそめる紗良ちゃんの手を、ぐいっと引っ張る。
「え、ちょっと。重すぎじゃない、あんた」
今度はもっと力を込めて、両手で引っ張った。
「きゃあ」
可愛らしい悲鳴と共に、紗良ちゃんは私の上に覆いかぶさってきた。長い髪の毛がばさっと落ちてきて、つんと香る檸檬と、微かなお化粧品の匂いと、川の、いや、水の、海の匂いと、紗良ちゃんの白い肌。きっと、お化粧なんてしなくてもツルツルのピカピカなんだろう。
「何すんの、まじで」
頬に息がかかって、熱くて、くすぐったくて、ここが川の中だってこととか、大人とか、子どもとか、受験とか、校則とか、面白いくらいどうでも良くなっちゃって、私はけらけら笑った。最初は怪訝そうな顔をしていた紗良ちゃんも、だんだん表情が柔らかくなって、しまいにはぷっと吹き出して、一緒になって笑い転げた。
「あはは、悠乃ちゃんって、ほんと、可笑しい」
「ふふ、紗良ちゃんこそ」
「髪の毛、ずぶ濡れだし」
「私なんて、背中、びっしょびしょだよ」
「自業自得じゃん」
「あはは」
私はすっと、紗良ちゃんの首に腕を回した。檸檬の香水がきつくて、頭が狂いそうだった。
「はい、これ」
「何」
「ネックレス」
ありきたりで可愛らしいハートのデザインは、紗良ちゃんにはあんまり似合っていなくて、それが逆に、愛おしくて。ありがと、と呟いて、どんどん私から遠ざかっていくのが寂しい。でも、起き上がった紗良ちゃんの私を見下ろす目つきは、嘘のように優しかった。
不完全な私たち。
風が雲を追い払った跡に残った、一人ぼっちの月が、寂しくて、綺麗だ。
私たちは体を起こして、川の中で二人、静かに座っていた。ゆらゆらと光る砂利が冷たい。
「早く、大人になりたいんだ」
と紗良ちゃんがぽつりと言った。
「大人になったら、誰にも責められなくて済むでしょ。何でも、好きなことできるじゃん」
「好きなこと…」
ひんやりと風が吹いて、濡れた背中に張り付いたセーラー服がふわりとなびく。横並びの風下に紗良ちゃんがいるから、もうあんまり香らないはずなのに、さっき鼻の奥にこびりついてしまった檸檬が染みて、涙が出そうになる。
大人はみんな馬鹿ばかりだ。責任の取れる行動しかできない、と小野先生は言っていたけれど、そんな立派なもんじゃない。みんなおろおろして、自分は何もできないで、ただ見ているだけ。勇気がないのを、責任が取れないから、と言い訳しているんだ。子どもは責任を取らなくていい、好きなことをやれ、なんて言うのだって、本当は自分にできないことを子どもに押し付けて、自分の手柄みたいに誇っているんだ。
大人になれば何でもできるなんて、紗良ちゃんの幼稚な幻想だ、と思った。紗良ちゃんはきっとまだ若くて、自分でいっぱいいっぱいで、だから周りの大人たちの下劣な噂話とか、くだらない力関係とか、嫉妬とか、後悔とか、なんにもわかっていないんだ。でもそれは仕方のないことだ。私たち、まだ、大人じゃないんだもの。
体が震える。冷えてきたみたいだ。ぐちゃぐちゃの制服で、ぐちゃぐちゃの頭で、考えるのは、試験に出るどんな難問よりも難しい、人生について。
「私は」
でも、目の奥がじーんとして、頬に伝う涙は熱くて、私の手にそっと重ねられた紗良ちゃんの手のひらは、それよりももっと熱い。
「私は、認めて欲しい」
昔は若かったはずの大人たちが、いつかの苦しみ悩んだ自分を幻想で固めて、無責任に羨んだり、理想に縛り付けてしまうように。いつかは私たちも、馬鹿な大人になるのかもしれない。
でも今は、まだ、大人じゃない。まだ親の手を離れられなくて、自分一人じゃ何もできない子ども。責任の取り方も、親の望む以外の生き方も、わからない。だけど、だからって、一人の人間なんだ。金森悠乃という、私を、決めつけられたくない。知ったふりしないで。私の人生。私だけの人生。お母さんのものじゃない。先生だって、何も知らないんだから。私を、尊重して欲しい。
「可哀想な、悠乃ちゃん」
優しく言った紗良ちゃんの腕の中で、しっとりと泣いた。先のことはわからないけれど、今の、私を見て欲しいと、切に願った。
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