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誰そ彼

 ドアから吹き込んだ風に流されて、髪の毛先が彼の肩をなぞる。手すりを掴んだ左手をびくんと震わせて、彼は用もないのに電子広告を見上げた。

 さっきから、行くぜ東北、ばかりが流れている。宮城、福島、山形。海岸の神秘的な風景も、色鮮やかなお社も、つやつやしたお魚や果物も、画面の中の、夢のお話。

 もっと華奢だったら良かった。狭い肩幅でこの隅っこにすっぽり収まって、彼を上目遣いで見上げられたら良かった。でも子供のころ水泳で鍛えあげられた私の逞しい肩幅では、電車のドア横、手すりと手すりの間に、窮屈に身をすぼめて挟まるしかないのだった。斜めがけの邪魔なバッグを前に回して、なぜか右側だけのストラップの付け根にくっついているタッセルの飾りを、持て余した両手で一本一本なぞっている。

 風に揺られたシャンプーの香りとともに、彼はひゅうっと息を吸って、ごくりと飲み込んだ。大きくでっぱった喉仏が飛び跳ねる。ぼこっと飛び出したそれはちょうど私の目線の高さにあるけれど、なんだか生々しくて、恥ずかしくて直視できない。

 Tシャツがふわりと膨らんでなびいて、薄い胸のラインがすっと現れる。半袖からそっと伸びた、細くてごつごつした腕が、僕は男の子ですよって主張している。さっきからずっと私の二の腕に触れている、左手の甲に浮き出た骨の形を、私はもう覚えてしまった。

 しゅーっと音がしてドアが閉まる。風がすっと止んだ弱冷房車は、一瞬で何もかも汗ばんでしまう。じめじめした髪の毛がすとんと落ちてきて、彼を見ている私の視界を遮った。

 漂うシャンプーのきつい花の香りが私を俯かせる。うなだれた私の髪をそっと持ち上げて、彼は顔を覗き込んだ。口元が緩まないように下唇を軽く噛んでみる。

「疲れた?」

細いのに固い指で、私の髪の毛を耳にかける。触れないで。触れないで。赤くなった耳たぶの熱を悟られないように、髪の毛はさらさらと零れていく。ちらりと目を向けると、大きく顔を傾けた彼と目が合ってしまった。

「別に」

目を逸らして顔を背ける。ドアの外は綺麗な夕暮れで、まだ明るいのに灯り始めたお店の明かりがびゅんびゅん飛んでいく。どんどん通り過ぎて住宅街に入る。似たような家ばっかり。三階建てで、駐車場と小さな階段のついた玄関が通りに面してて、身をすぼめてお揃いの家々が並んでいる。狭苦しい街。一つに焦点を合わせたと思ったら、すぐに飛んでいく。でも、遥か遠く、向こうの山の裏に沈もうとする夕陽だけは、ずっとそこで居場所を掘っているみたいだ。

 不意に通ったトンネルで、彼が映った。さっき私を見ていたその目は、今また電子広告を眺めているようだった。突き出た喉の影が眩しかった。でもトンネルを抜けたら、もう夕陽は沈んでいた。生温かい空気とシャンプーの香りと、飛んでいく家々。

 二の腕に滲んでくる体温を感じながら、彼の首を伝う水滴を思い浮かべる。私はそれを見下ろしている。正面から見た喉仏は少し気味が悪くて、触れたくて手を添えて、ぽとりと水が落ちる。私の汗。彼はごくりとつばを飲み込んで喉を震わせる。私の汗が伝っていく。つーっと伝って首の後ろへ。だんだんとシーツに染み込んでいく。耳にかけた髪がはらはらと落ちて彼の肩を撫でる。

 再びふわりと風が吹いて、髪がなびく。彼はじゃあねと手を振って目の前をよぎる。彼の指の分広くなった隙間でバランスをとっていると、風に乗って彼の髪から同じ花の香りがした。

 冷たい手すりに残った僅かな体温を二の腕に感じながら、ドアの向こうの後ろ姿をぼんやりと眺めていた。

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