見出し画像

随筆|「とまどいの季節」

僕が今、感じている気分というものが、この世界を構成しているとするのなら、否、それを前提として、僕らが生きているとしたなら、その気分を良くするために生きていても、何も悪くないと、最近、思う

例えば、恋愛について歌った曲を聴くと、あの子の事を思い出し、切ない気持ちと、誰かを愛したくなる気持ちが顔を出し、それが一つの空間に現れる、その恋愛特有の(これは当人が恋愛をしているか否かに関わらず、あたかも、恋愛したかのように錯覚する音楽の力によるもの)気分に浸れる

この気分に引っ張られて、自己の内部にある数あるモードの中の選択肢の一つの、「恋愛」というカテゴリーが浮き立ち、それが選択され、目の前の景色を染めていく

カメラでいう、レンズの前に取り付けるフィルターのような役目、ソフトフィルターを掛けた様に、世界の諸々が、やんわりとその輪郭を緩くさせる、つまるところ、僕らが見ている世界は、僕ら自身の気分によるものであり、それが現時点での「現実世界」へと繋がる

人の数だけ、その世界は無数に存在するが、世界は単位的には一つしかない、解釈の違いによる無限性が、個々人の存在により、それが確立されているのである、僕が今どんな気分で物事を見ているかは、何となくで誰かに伝わっていく、これは良くも悪くも、その誰かにとって影響を及ぼす

世界が気分による構成で成り立っているのなら、気分を作り出す努力が、自分の理想とする世界を構成させる事が出来る、そう仮説を立てた時に、何故だろう、僕は気持ちが高揚して、一瞬で気分が良くなったのである

僕らが生きていく中で、社会そのもののルールや、どうしようもなく対処が出来ない事柄、凝り固まっていく思考でがんじがらめになり、束縛されている事がスタンダードになってしまっている、という事を感じる人は少なくない、そうでなければ、生きにくいなどという言葉は、そもそも生まれないからである

ただ、その拘束感は、外部からの圧力によるものだけではないのもまた事実、変えられない事実に対する軸の向け直しが、上手くいかない自己の責任でもある

つまるところ、本当の自由は、不自由の中にこそ生まれるという、逆説的な転換による思考が、出来ているか否かだと、僕は思う

自由意志とは、その名の通り、自由の権利がある、物事に対する解釈の仕方は、これは自由だ、僕の気分は、その選択やそれを作り出す行程への意識において、変わっていく、それが引いては世界をその色味で広がらせる要因となる

長々と難しく遠回しな表現で論じていますが、めちゃくちゃ簡単に言えば、「恋すればいいのよみんな」、これに尽きる

とまどいの季節

貴方を想う私が存在すること
それだけで世界は優しくなっていく

みんな、恋愛しような
恋愛じゃなくとも、自分が居心地の良い空間で生きような、無理しなくてもいいからな、自分を卑下しなくていいからな、ただ、生きているだけで立派なんだからな、心に栄養をたくさん与えるんだぞ、いつかの貴方が、誰かを幸せにするからな、それまで、自分を大切にしろな

そんじゃ、眠る気がないinacaでした

したらば!!!!!!

いわゆる、駄文