随筆|自分にしか為せない写真
結局のところ、なぜ、写真を撮るのかと言うことに、納得のいく答えを導き出せる人は、そう多くはないのではないだろうか
カメラを用いて、シャッターを押すことで、写真という主観的に見えた、どこまでも客観視できる情景が映し出される、そこに色味がどうたらこうたらと、レタッチをすることによって、記憶色に近づけ、己のエゴを足していく、この一連の流れを形取った写真を他者に見せることで、その時、自己が感じた想いや、その空気感を共有する、その共有が、誰かにとっての刺激にもなり得るし、自己のエゴの満足を得る行為ともなる
SNSが流行る以前は、写真なぞ、より個人や身内で楽しむものという側面が大きかったように思えるが(コンテストや、個展を開く方々、プロ写真家のコマーシャルフォトを除く)、今の時代、こんなにも写真を共有することに、重きが置かれる環境であることは、一昔前のフォトグラファーは思いもしなかったのではなかろうか
写真は消費される時代になり(もはや、SNSの特性が消費という概念に集約される)、タイムラインと呼ばれる、リアルタイムでの自己発信が、不特定多数のユーザー間で取り行われ、誰の目にも止まらずに、行き場を無くす「つぶやき」も多い中で、写真もその範疇に入ってしまった
「バズることが、最も大事な要素として抽出され、マジョリティを得ることに躍起になる構図が出来上がってしまった」
乱暴な言い方ではあるけれど、自分を認めて貰いたいが為に、写真を利用するという言い換えも出来るのである、フォロワーやいいねやリツイートの「数値」に特化した、そこに弄ばれる人間が出来上がるのである、これは、全ての方々が対象ではない、大きく俯瞰して見た時に、この「数値にこだわる人間模様」が、強くその側面を照らしているように思える
僕はどちらかと言うと、写真を撮ってはいない、これは物理的な性質ではなく、「写真そのもの」という精神的な部分を多く含有する、写真とは…などど、人はそれぞれの想いを吐露するが、人それぞれの写真に対する捉え方のそれである
写真とは、僕が思うに、現実との接点であるし、過去や未来さえも含有するものでもある、この考え方に至っては、少しふわふわしているけれど、最近、僕が撮った写真の中に、実家へ帰る時の風景やら、実家の空気感がそこに収められている、私事ではあるが、父親が亡くなったのだ、その時に帰省した空気感や気持ちが、バズるバズらないの範疇を全く無視して、そこに多分に込められている
僕がこの写真を撮った時、より外的な「SNSにおけるいい写真」とされる写真に当てはめられない、自己の内で全てが完結できる「僕にしか為せない写真」が生まれたという実感が、湧いたのである
それは他者を必要としない写真であって、僕にしかその全てはわからない写真である、この写真を撮れた時、僕はSNSの集団における習わしなぞ、どうでも良くなったのである
写真を見返した時に、その時々、感じていた気持ちや空気感が蘇ってくる、それは現実世界で、過去を見つつ、また、その過去から未来を探すような行為とも受け取れる、あの時、こう感じていたということを、今、あの頃のように受け取って、では、未来の自分がどうしたいのか、簡易的ではあるが、このプロセスが頭を駆け巡っていく、少なくとも僕にはそう感じる
しばらく、SNSの呪縛から逃れられ、違う現実と向き合っていた中で、「写真とは」の一つの側面に触れたような体験であった、そこで考える「なぜ写真を撮るのか」という命題であるが、その答えは、まだ出せるものではないのかもしれないし、その時々で、変わっていくものなのかもしれない、生きている内で、何度も考え直し、個人の内で決めていくものなのかもしれない、そもそも「なぜ生きるのか」の問いに対する哲学者の答えも、其々、まちまちであったりするし、答えも出ていないのである、ただ、僕は全ては己がこの世から消え去った時に、その全てが完結すると信じているから、それを探す旅が今世であると思っている
過去にも似たような写真の在り方に対する記事を書いたが、それを含めて、どんどん深く潜っていける神秘性がそこにはある、全ては思い違いかもしれないが、アイデンティティの一つでもある自己を具現化した写真に対する熱量は、まだ保っているように感じる、そんな長々と中腰になりながら、暗い部屋で寒い中、勢いのまま執筆するわしは、心底アホであろう
最後まで読んでいただきありがとうございました、寒いし、首裏痛いからフローリングで仰向けになりながらのお別れです、また読んでくれyいな
したらば!!!!!!!
いわゆる、駄文