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NiziUのあの子とWithUが好きだ。好きだった。

NiziUが好きだ。



コロナ初年度。
全く経験も想像もしない中に
とつぜん放り込まれた時期。
閉塞感ただよう生活における
ささやかだけど大きな「希望」
それがNiziUであり
虹プロジェクトだった。

自分の人生を掛けてなにかに臨むその姿は清々しくて、まっとうで、見ていると浄化されるようで。
鬱憤を忘れるようにのめり込んでいた。

その中でひときわ気になる存在。



「輝いた存在になることしか夢にない」


背筋を伸ばしながら
キッパリとした口調で話す。
大人びた容姿と
強い眼差しを兼ね備えていた。

それでいて、どこか繊細な雰囲気。
自信に溢れているようで
迷いや不安や切実さが見える。


あぁこの子、強そう。
だけど、きっと、それだけじゃない。 


もっとこの子を知りたい。
この子がどんな風に成長していくか
見てみたい。

「この子を応援しよう」
そう思った。

それが自分にとっての始まりだった。


そこからその子は
驚くほどのスピードで成長を遂げた。
ファンの予想や想像に
収まる気なんてさらさらない。
しれっと、でも堂々と。
圧倒的なパフォーマンスで
ファンを、私を、魅了してくれた。

その一方で
今までやってきたダンスと
NiziUで求められるダンスの
ギャップに苦しんでいた時もあった。

けどそれを一切感じさせなかった。

綺麗な花として
ファンの目を楽しませながらも
見えないところで努力を続けた。

出来ない、出来ない、上手くいかない、
でも。

その苦しみを超えて
初めてのアリーナツアーでは
ソロダンスブレイクで魅せてくれた。

あの時の輝きは今も鮮明に
脳裏に焼き付いている。
何かと闘うような鬼気迫る迫力と
ある種の狂気すら感じるような。
あのダンスはこれからも
絶対に忘れることはないだろう。


私はそんな彼女の
「言葉」が好きだ。


思ったことは素直に言う印象。
嬉しいときは嬉しいと言うし、
悔しいときは悔しいと言う。


けれどいわゆる「毒舌」とは全く違う。

言いたいことの芯をしっかり捉えながらも、その言葉からは「明るさ」「あたたかさ」を感じる。

ファンの不安や辛さを敏感に感じ取り、丁寧にすくい上げてくれる。
言葉が相手に届いた時のことを
きちんと想像してくれる。

自分の繊細さを
周りへの優しさへ変換して
自分の言葉を届けてくれる。

言いたいことの芯を捉えながら
相手への配慮を忘れない言葉選びは
中々できるものでは無い。

それが出来る彼女は
とても賢いと思う。


そんな彼女の言葉は愛情深いが
湿っぽくはない。
どこかサラッとしている。

だから受け取る側も
明るい気持ちになれる。
スっと心が軽くなる。

言うなれば「暗いところに豆電球の光が
ぽっ、と点いたような」感覚。

LED照明のような刺激とは違う。
ほっとするような明るさ。
そんな感覚。

子供の頃からダンススクールに通い
やると決めたことはすぐやる子。
もしかすると普通の女の子よりも早く
精神的に自立していたのかもしれない。

だから相手に寄り添いつつも
必要以上に相手を自分のテリトリーに
取り込もうとしない。
(ファンに対しても「自分の生活の中で無理をしないで推し活をしてくれたら」的なことを言ってたことがあったし、「WithUに友達も恋人もいない」と言ってたこともあった)

自分と相手の距離感をわかっている子なんだと思う。

あの子のダンスが好きだ。

しなやかで、反り返るほどに伸びきった指先の美しさが好きだ。

振付と振付の間に感じられる
「余韻」が好きだ。

力強い振付の時に伝わってくる、重さと速さをとてつもなく高い次元で両立させた「強さ」が好きだ。

(余談だが私の好きな漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の作者である荒木飛呂彦先生は「年齢と共に身体は硬くなる。だから指先の反りや柔らかさは若さとエネルギーの象徴」と言っていた)


彼女のダンスは感情にダイレクトに訴えかけるような感覚がある。
説得力といい意味での圧力が凄い。
それは時に「すさまじい」と感じるほど。

先日公開されたダンス動画。
あれも100%ではないだろう。
あの衝撃はまだ「始まり」に過ぎない。
そんな気がした。


あの子の眼差しが好きだ。

凛として、媚びない。
でもどこかに幼さを少し残したような
表情が好きだ。

早くからダンススクールに通い
ひとつのことに本気で取り組んでいたひたむきさ。

それにより自然と身についた芯の強さ。

やると決めたらすぐ行動に出る潔さ。

22歳の、年相応の若さ。

明るくて真っ直ぐで、飾らない人柄。

人を惹きつけるには充分すぎるくらいに魅力の引き出しが多い子だ。


可愛らしさ80%、美しさ20%
かっこよさ95%、可愛らしさ5%
美しさ55%、儚さ45%

そんなふうに「魅せ方」の配分を自分の引き出しの中から自由自在に作り出し
その都度違う一面を見せる。

無意識か意識的かは分からないが
悔しいくらいにドキッとさせられる。
ハッとさせられる。

自分を素直に表現しているようで
どこかまだまだ知らない一面があるんだよ、と言われてる気がする。
そしてそれがたまらなく愛おしい。

そう思ってしまうほどのものを兼ね備えている。


そして私はWithUが好きだ。


性別も関係ない。
年齢も関係ない。
職業も生活環境も関係ない。
家族でもない。
恋愛関係でもない。
全くの他人。
知り合うことは無かったであろう他人。

それぞれに生活しながらも
「好き」の二文字だけで
知り合った他人。
99.99999%は画面越しだけの関係。

NiziUが生活の一部になっている人たち。日常と非日常のあいだに生きて、
冷静と熱狂のあいだで悩み抜いてる。


行くか、行かないか。
買うか、買わないか。
言うか、言わないか。
辞めるか、辞めないか。


相反するものの中で
反復横跳びをするように
日常生活と推し活を行き来する人たち。

投票、MV、ストリーミング
イラスト、バナー、Twitter、オフ会

形は人の数だけある。
その中で自分なりに取捨選択をしながら、楽しさと大変さと、時には焦りを。時には使命感を感じながら。
正解も不正解もない中で
推し活をしてる人たちが
本当に愛おしいと思う。

何もかも忘れるくらい楽しんだり
人と比べて落ち込んだり
時には嫉妬したり
時にはひっそりと離れたり
またひっそりと戻ったり。
ときには涙したり。
時には怒りを感じたり。

自分の周りには「濃い」人が多い。
愛すべき人たち。
その人たち自身が「どんな人なんだろう?」と興味を持つくらいに濃い人たち。
だんだん「この人達にまた会いたいな」
そう思うようになった。

NiziUで繋がったけどNiziUを超えて
その人たちと作る時間そのものが
幸せだと思うような。

「人と接する機会が少ない」ことを理由に事務職を選ぶほどの人見知りである自分にとってはカルチャーショックであり、
かけがえのないものだ。
人の話を聞いてるだけで楽しいと言う
感覚はそうない。
その人の話を聞くことが楽しい。
最高の時間だった。

自分がSNSをやるなんて
想像もしてなかった。

指ハートの意味がわからなくて
Googleで検索したり
100日記念の数え方がわからなくて
必死で計算してみたり
色んなアプリをダウンロードして
課金して、バナーを作って。

駆け抜けた時間が幸せすぎた。


そこに追いつけなくなっていったけど
ファンを辞める、と言えるほど
簡単に離れられるわけではない。

ただ、固執しすぎた。
楽しすぎて執着しすぎてた。
自分の中に「理想のあの子」を
ガチガチに築き上げすぎた。

気がついた時には
あの子は自分の理想とは
全く違う世界にいた。
自分の中に築いた「理想のあの子」は
もうどこにもいなかった。

そして「理想のあの子」には
もう二度と出会えないと知った。

他人なんだから
自分の思い通りの存在で
いる訳がないのに。
受容できなくなっていた。


あの子の成長を
受け止めきれなくなっていた。


そしてそんな自分にゾッとした。


NiziUのニュースを見るのが
日に日に苦痛になっていた。

楽しむWithUの姿にイライラを
感じるようになっていた。  

「こんな嫌なことを考えているのはきっと自分だけ。みんなあんなに楽しそうに好きなことをつぶやいて、愛情を伝えられてるじゃないか」
「お前は度量の狭い人間だな」
「推しがお前の手元にずっといるわけが無いだろう」
「お前の理想なんて誰もしったこっちゃないんだよ」

頭の中の誰かの声に苦しむことが
日に日に増えた。

「裏切者」のレッテルを
貼られたこともあった。

いつしか楽しむことよりも
義務感が増していた。
楽しさと大変さ(充実感)に満ちていた
活動が苦痛の元になっていた。
 
変わらず応援し続ける人たちと
自分だけ向いている方向が違う。
その人たちはどんなNiziUも愛せてる。
けど自分は違う。

その事実と消えようのない
孤独感に押しつぶされていた。
WithUは自分と自分以外に
完全に分かれていた。

辞めることを考えた。
それぐらい辛かった。

はっきりいって
自分がいようがいまいが
自分以外の人間には
なんの関係もない。

NiziUもWithUも
自分が生きてようがなんだろうが
そんなものは関係なく
幸せに日々を過ごす。
あの子は私の存在を知らないけど
私にはあの子が生活の一部だった。

それが正直悔しいと思うこともあるし
誰かに「仲間として」必要とされる快感は
そう簡単に手放せるものでは無い。 

自分の役割があるということは
存在を認めてもらえていること。
自分を見て欲しい「欲」は
そう簡単に消えない。
FCを辞めた今も
心がズキズキ痛むこともあるし
ギュッと締め付けられることもある。
WithUの投稿を見て
「もうここに自分は二度と戻れないんだ」「自分で自分の居場所を手放してしまったんだ」と
涙することもしょっちゅうだ。


けど、何を幸せに感じるかは
結局自分にしか分からない。 



そして何が幸せなのか。
今の自分にはそれが「NiziU」とは
違うところにあるんだと気づいた。


「ファンならこう思うべき」
「ファンならこう思ってはいけない」
「推しの幸せが第一」
「推しを表面的にしか見てない」
「お前は本当の意味で推しが好きなわけじゃなかったんだよ」

頭の中で聞こえる誰かの声より
自分が楽しいかどうかが大事。

そしてその楽しさが分からない時
分からなくなった時。
辛さや苦しさが勝る時。
それは突然やってくる。

その苦しさは楽しさよりも
ずっとこびりついて離れない。


「推しは推せる時に推せ」



それもある。

が、私はこう思う。




「推しは推したい時に推せ」



#NiziU #WithU




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