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芸大大学院に半年通って見て

4月から通っている京都芸術大学大学院学際デザイン研究領域での1年目の前期が終了しました。あっという間でしたが、「与えられた課題を解く」という経験がかなり久しぶりで、大変ではあるものの、楽しくも取り組んでいます。

ここ何年も、経営者だったり、地域団体の長だったりという「課題を示して与える側」だったので、「提示された課題に自分のアウトプットを適合させていく」という頭の使い方が新鮮で、大変だけど、使っていない部分を使って脳がほぐれていく感覚があります。

一方、メタレベルで見れば、課題という「与えられる」という形ではあるものの、課題の中身は、「あなたは何を問い、課題とするのか」という「自分」が相当に求められていとも感じます。このあたりに、芸大らしさのようなものを感じます。

そして、その、周辺環境や自分の触れたものの中から「【自分が取り組みたい】課題」を発見するという作業は、経営によく似てるという実感がああります。

ビジネスにおいても、完全に客観的にエビデンスガチガチ、ロジックガチガチで、誰がどう見ても「これが課題ですね」「そうですね、これを解決しましょうね」ってはじき出された、みんなが納得できちゃうもののは、結局、誰がやっても同じ回答になってしまいます。そう、「客観」ばかりだと、経営者の存在価値はありません。このあたりの議論は、山口周さんがいうところの、「正解のコモディティ化」と言うことだと思います。


経営者ってのは、「データやエビデンスや状況分析やロジックではそうかもしれねぇけどよ、俺はこれがやりてぇんだよ、だからやるんだよ。」っていう、良い言葉で言えば「志」が高い、「ビジョン」が明確、悪い言葉で言えば「エゴ」が丸出しでないと、やってられないところがあるというのは、日々実感します。

もっと言えば、世の中に対しては、「俺はこういう世の中を実現したいんだよ」というもの、自分や組織に対しては「俺はこういう状態があるべき姿だと思ってるんだよ」という両方がなければ、規模の大小はあれど、わざわざ組織体のトップをやる必要なんかありません。

よく「下請け」という言葉がありますが、その企業のやってることが、発注元の下請けかどうかというのは、法律的には資本の大小関係とかありますが、マインドとしては、「ビジョンを持って、その仕事を受注しているか」なんだと思います。

「ビジョン」が無い状態で、来る仕事、受けた仕事をたださばいているのを「下請け」といい、「ビジョン」をもっていれば、例え形式的な判定では「下請け」であっても、意味としては「仕事」になりうるのだろうと思います。

 さて、「俺がこれをやりたいんだよ」「俺がこれを解決したいんだよ」「だから、この会社をやってるの」という、「志」や「エゴ」だけだと、誰もついて来ないし、事業だって成功しません。そもそも理解もされません。


社員や関係者の協力を集める為には客観的なエビデンスや、共有出来る表現が必要で、経営者自身が「主観」と「客観」を往復しないと、組織体としての結果には導くことは出来ません。

その意味で、「自分はこれが表現したいんだ」という内なる渇望に忠実になること、それを他人に理解してもらうことを目的とする「表現物」として落とし込んでいくという方法論は、経営者としてのスキルやマインドセットと、思った以上に相性が良いのかもしれない、少なくとも喧嘩はしてない、という感覚を持っています。

そこが、まず、半年かよって見ての感覚です。

今日の話はここまで。

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