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『麒麟が来る』感想----令和の時代の志
昨日、『麒麟が来る』の最終回でした。
大変素晴らしい大河ドラマでしたが、そのあとSNSで友人と話していたとき、ラストの3年後のシーンに話題が集中しました。
そこで、そのシーンの意味、そして、全体を貫くテーマについて、自分なりに思ったことを書いてみます。
(以降、登場人物の説明などは略しますので、基本的に視聴していた方向けの記事となります。)
本能寺の変から3年後、最終シーンで、足利義昭が
「信長のことは大嫌いだったが、志はあった。光秀にははっきりあった。」
といっていました。そして、その直前のシーンで、東庵を通じて、秀吉が関白になったことを、必ずしも世の中が喜んではいないような様子も描かれていました。
では、秀吉には、志がなかったのでしょうか。
秀吉は劇中で、「志」のようなものを語っています。それは、光秀の「平かな世」を問われたとき、「わしのような貧乏な人間がいない世の中にする」と答えていたことです。
そして、秀吉の人物造形は、貧しさからのコンプレックスを出世欲に変換する人物として描かれ、その究極は、最後の最後、我が主君が打たれる報を聴いたとき、悲しむでもなく、『さらなる出世の道が開ける』と喜びを隠せない人物像として結実していました。
そして、劇中、秀吉のモチベーションは、金ケ崎の退却口で語られます。そこでは、妹の食事を奪い餓死させてしまった自分の浅ましさを嘆き、地を這う虫のような存在から脱出したい、自分も羽ばたきたい、という渇望として描かれ、それゆえ危険な役目である殿を引き受ける。
だが、役目を果たして帰ってきても、誰も身分の低い自分が危険な役目を成し遂げたと信じてもらえない。卑しい身分、貧しい身分の悲哀を受ける役。
しかし、秀吉は、出世したのち、貧しい子供たちをみた時、決して彼らに同情や共感を寄せるそぶりは見せません。それどころか、『昔のわしだ』と暗く蔑む目をし、賭博に狂い金に汚い弟を、何の躊躇もなく殺す指示を出します。
それに対して、若き日の信長は、貧しい人たちには市場で釣った魚を安く販売し、それによってみんなが喜ぶ顔を見ることに、自らの幸せを見出す人物像で描かれます。
この差を『志の有無』として表現しているのではないでしょうか。
つまり、立身出世というモチベーションは『志』とはいわない。『貧しさからの脱却』は、もはや『志』たりえない。
凄く大きな話をすれば、田中角栄が『今太閤』とよばれ、国民全員が立身出世の明るい未来を信じられた高度成長から平成バブルの時代『秀吉』が理想像で良かったけど、
人口減少により内需が小さくなり、高齢化社会で社会福祉負担が増えていく『令和の低成長時代』では、『貧しさからの脱却』の『秀吉』を理想に置くことには無理があって、より『みんなが喜ぶ』ことを重んじていく。
しかし、この『皆が喜ぶ』と言う『志』は簡単なことではない。それは、信長の行動を見れば分かる。
思えば信長の暴走は
『俺は!親父に喜んで欲しいの!だから敵将の生首をプレゼントしたの!なのに怒られた!』
『俺は!母親に愛して欲しいの!だから弟を殺した!泣かれてしまった!』
『俺は!帰蝶に喜んで欲しいの!だから安土城作った!岐阜に帰っちゃった!』
『俺は!公方様に喜んで欲しいの!岐阜城に名物を集めたの!この金があれば民が救えるって言われちゃったけど!』
『俺は!松永久秀を評価してるの!だから畿内一国をあげようとしたの!あいつ、大和に拘って刃向かったけど!』
『俺は!帝に喜んで欲しいの!蘭奢待プレゼントしたの!それ、毛利に回されちゃったけど!』
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『なんで、みんな、ついてこないの!じゃあ!やっぱり、俺が一人で平らかな国を作る!』
独りよがりの『こうすれば喜ぶんだろ』の押しつけは、却って周りを不幸します。
さらには、『じゃあ、みんなで貧しいながらも幸せな社会』を賞賛するほど単純な脚本ではありません。
お金がないから比叡山に遊女として売られ、そして、『比叡山の一味』として巻き添えでなくなってしまう貧しい少女と、少女の兄でを買い戻すために丸薬を転売し、同じく焼き討ちの巻き添えでなくなる貧しい少年の姿がありました。
『人を救う薬を商売にするなんて!』といっていたピュアな少女が、沢山の命を救うためには経済力が必要だと気づき、物語の後半には『薬ビジネス』を始め、最終話では大名相手に丸薬販売の大商いをするまでに成長しました。
やっぱり、貧しさからは脱却しなければ、安定した社会は築けません。個人の所得を増やし、経済を回さなければ、社会をよくすることは出来ない。ピュアなきれい事では世の中回らない。それを表現するには、駒のしたたかな生き方を描く必要があったのでしょう。
ヒロインだから、光秀との恋愛を華やかに書くことも出来ました。しかし、駒は質素な着物で自らのビジネスとキャリアを積み上げていきます。光秀に対する感情は、恋愛対象というより『世の中を良くする道を示すメンター』に対する敬意、例えば、これからキャリアを築こうとする若者が、業界の代表的な人物を目標にするような感情という方が、しっくりきます。非常に、現代的な描き方になっていると思います。
話を戻すと、当時の上級社会階層である武士達が語り合い、目指す『志』を観念論に終わらせないために、平行ラインとして、庶民の実態、現実社会を描いている。それが、今回の大河の大きな構造です。
今回は架空キャラクターシーンが長いと言う批判が多かったようですが、私は、やっぱり、架空キャラクターのシーンは、この平行関係をリアルに描くためには、それだけの尺が必要だったと思います。やはり、『駒と東庵』は必要なパートだった。
この対比が鮮やかだったのが、先の比叡山焼き討ちの回。少年が1日の働きで得るお金は8文との描写、その5分後に松永久秀が1000貫の茶器を筒井順慶に売りつけようとします。1貫=1000文ですから、1000貫は100万文。
名もなき貧しい庶民の少年が8文のために命を落とし、かたやその10万倍以上の値段でマネーゲームをする戦国大名たち。
これまでの『戦国時代劇』では、三英傑を中心とした武将の駆け引きや人間模様しか取り上げられていない作品がほとんど。しかし、その英傑達の人間ドラマの、足下には、庶民という存在がある。この庶民の存在なくしては、英傑達の立派な言葉も、ただの観念論になる。
アフリカのことわざに『二頭のゾウが争うとき、傷つくのは足下の草』という言葉があるそうです。これまで、『ゾウ』だけを切り取っていた戦国ドラマにおいて、足下の草の存在を突きつけたのが『駒パート』の意義ではないでしょうか。
まとめると、令和の時代、『経済成長、立身出世』は、もはや『志』とはいわない。かといって、みんなで貧しくなろうの『清貧』の精神論では、社会が持たない。その上で、『立身出世』だけでない、大局観を持った『平らかな国』こそが『志』であるというのがテーマだったように思います。
そして、最後のシーン、光秀らしき人物がまちの中に現われ、幻のように消え失せる。『麒麟=平和をもたらすもの』は、案外、直ぐ近くにあって、でも、直ぐに消えてしまうものでもあって。
『光秀が生きている気がする』『いつかのために、光秀が力を蓄えている』という台詞がありました。
本能寺の変から3年後だけでなく、現代の今の世の中にも、概念としての『光秀=麒麟をもたらすもの』は生きていて、馬に乗ってそこら中を駆け回っているのかもしれない。
単なる『立身出世』でもなく、単なる『清貧』思想でもない、そして、『正しい志』を日々の生活の中で持つこと。その『正しさ』は『正しい』ゆえにピュアで、気を付けなければ周囲も自分も傷つけてしまうということ。
終盤、「平蜘蛛を持つには『覚悟』がいる」という話がありました。正しい志を立て、そして『志』を維持するには、覚悟がいる。
でも、そういう『志』ある世の中になれば、光秀が麒麟をつれてやってくる。
そういうテーマだったのではないか。
と、今は解釈しています。
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