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私が学業でやってきたこと『学部編』

日本維新の会参議院議員の音喜多駿議員が、こんな記事を書いていました。

彼とは互いに学生の時代から親交があるのですが、この記事の内容では、『学業』ではなく『単なる単位取り』だと、さすがに思ったので、私自身の学部時代を思い出して、記事を書いてみたいと思います。大学での学びについて、何かの参考になればと思います。

大学に入る前

そもそも、大学に入る前までは高校2年生までは理系でした。漠然と発酵に関係する農学部を志望していましたが、当時はそこまで強い志望動機ではなく、「家を継ぐのだから関係した学部」という引かれたレールをすんなり乗っている感覚が強かったです。

ただ、父は「宇宙工学でも何でも良いぞ、直接役に立つことより、これが自分にとって何の役に立つかは分らない、つまらない念仏のような授業の方が、人生、あとあとになって効いてくる」と言っていました。その意味は、大人になって、分ります。

転機になったのは高2の夏休み。当時、都内の大学で経済学を教えていた親戚に頼んで、大学の案内をしていただきました。当然、経済学部が中心になったのですが、学校のアカデミックな雰囲気に憧れ、また、そのときご紹介いただいた(お名前は失念)同僚の先生方などの熱気も受け、(確かそのときゲーム理論のさわりを教えていただいたと思う、今思えば貴重な体験)、家に帰った後「経済学部を目指したい」と言いだしまし、志望を変えました。

大学入学後(教養課程)

大学入学後、元々は理系だったので、統計学や経済数学、そして切っ掛けになったゲーム理論などに関心を持ち出し、そちらの方面の授業は熱心にとっていました。統計学や政策分析の自主ゼミにも参加していました。

純粋な経済学であるマクロ経済学やミクロ経済学は正直、あまり関心が持てなかったのが本音で、講義に出ずに教科書をテスト前に読んで一夜漬するタイプでした。今思えば、もっと丁寧にやっておくべきだったと思っています。

逆に、統計学の授業は大変面白く、毎回出席して、教科書の練習問題も、特に教授がやったかどうかをチェックするわけではないですが、丁寧にやっていた記憶があります。

語学は、実家の仕事を考えれば、発酵文化があるアジアでビジネスをやることになるだろうと18歳ながらに漠然と考え、第二外国語は中国語を志望しましたが、抽選で外れてドイツ語に振り分けられました。なので、モチベーションは余りあがらず、第二外国語はとりあえず単位だけ取れれば良いだったのが正直なところです。

今思えば、ドイツ語も、英語で言えば中3~高1位の文法まで授業で到達していました。英語で中3レベルならとりあえず旅行はなんとかなるぐらいなので、テストの翌日には忘れてしまうようなことでなく、もっと身になるような勉強をしておくべきだったなと思っています。どうせ必修だったのだし。

正直、当時は興味がある授業は出るけれども、興味がない授業はほとんど出ていませんでした。

1,2年の教養の授業で、毎回出ていて印象に残っているのを羅列すると、

『地理学』では、「地図を元に2つの地域を比較する」というレポートがあり、地元で区画整理に反対した地区と受け入れた地区のその後の発展の変化を調べました。

『政治学』では、担当教員が『クリントン政権がどうのとか、EUがどうのとか、時事解説は政治学でない、もっと原理原則を』というような教員で、『怪獣と戦うウルトラマンが踏み潰した民家の損害賠償は誰が払うべきか』というようなことを検討する授業でした。これは面白かった。まだ授業のプリントを残しています。

また、元々は農学部志望だったので、教養で『生物学』をとりましたが、輪読でした。レイチェルカーソン『沈黙の春』輪読が前期、後期は環境に関するフィールドワークで湘南の小網代と学校キャンパス周辺の生態系観察でした。生態系を学問的に捉える基礎、また、文献と実地を横断する考え方は構築できたと思っています。

印象に残っている一般教養はこんな感じです。

あと、情報処理が必須だったのですが、正直に言って、当時ホームページ製作のバイトなどやっていた自分にとっては、シラバスを見ても、『このレベルのスキルなら授業出る必要がない』と早々に見切りをつけました。結果、出席点が最低で単位は来たものの最低評価でした。

このときは気づいていなかったのですが、『クラスメイトと自分の知識をシェアすることを持って、別の学びが出来る』ということ。これに気づいていれば違っただろうと。

大学入学後(専門課程)

3年生になり、研究会(ゼミナール)を選ぶに当って、2つの研究会で迷いました。

当時の自分の関心でいえば、『所得格差』に興味がありました。大学生になって、私の大学は付属からエスカレーターの人が半数ぐらいいるのですが、揃いも揃って、みなさんご家庭の所得が明らかに高いんですよね。でも、それを『普通』と思っている。これは先日紹介したnoteと同じような感覚を持ちました。

そこで、『所得格差問題を、興味のある統計学やゲーム理論などを用いるアプローチで研究したい』という大きな志望動機があり、2つほどの研究会に絞った結果、『経済発展論』という、一国の経済が発展途上国から先進国になるまでを取り扱う分野の研究会に所属しました。

ぶっちゃけ、専門科目はかなりしっかりやった方だと思います。基本は授業に出ること。授業のプリントや教科書だけでない情報、それは、教授がどこにポイントを置いて説明したか、どこはサラッと流したか、このあたりは授業に出ないと掴めない情報です。そして、その『どこに重点を置くか』を学ぶことが、『そのジャンルのプロの物事の見方』が潜んでいますし、それが本からは学べないことではないでしょうか。

あと、シラバスに書いてある参考資料や副読本は必ず目を通します。書いてある内容、知識を頭に入れると言うより、「教員は、なぜ、この本を副読本に指定したのだろうか。この副読本から何を学んで欲しいのだろうか」ということを推測しながら読む。そうすると、教科書と副読本の間の関係がわかり、自分の中に、その教科における知の体系が出来てきます。

試験頃になってくると、ある科目に対して、『授業で教員が口頭で説明したこと』『教科書』『副読本』『授業プリント』、さらには、『授業に指定されていないけれども、教員の著作物』があれば、それらも、自分の中に『知の体系』を構築する重要なアイテム、これら、『***論』とか『***学』についての、様々な『知』が手元に集まります。

それらを、ノートに書き出すなどして、『知』をグルーピングします。そうすると、教科書の*ページに書いてあったことと、副読本の*ページに書いてあったことが、*月*日の授業の教員の発言と結びつくような、『ひらめき』が得られてきます。

そして、その『グルーピング』同士のつながりに着目し、体系立てて並べると、「この知識がこの知識の前提」「これとこれは並列の関係」みたいなのが見えてきます。そして、ここまでいけば、あとは、それを、自分の言葉で文章化します。このとき、他人に説明することを意識して、ノート(実際はWordを使っていましたが)文章化します。

その結果、ある授業の私のノートが「大変分りやすい」と評判になり、マスコミにもよく登場する先生の人気講義で履修者が700人ぐらい(要するにほぼ全員が履修している)になったのですが、その700人全員が試験前に私のノートのコピーを読んでいたと言うことがあります。ちなみに、その700人の中の1人に、某超有名男性5人組アイドルグループの1人もいて、私のノートを使って単位を取ったと人づてに聞きました。ちょっとした自慢です。

その先生とは演習科目もとっていたのですが、「村井君のノートが出回ったせいで、ほぼ、全員にA評価つけざるを得なかった、村井君はAじゃ足りないからSつけたい」といわれたのは、思い出です。

その先生とは、特に親しくしていただき、飲み屋さんで議論を交わしたり、話の弾みで、全くプライベートで先生の好きなアーティストのライブにご一緒させていただいたり、後に大学院進学で推薦文をいただく関係になりました。最近ご無沙汰していて申し訳ありません。

そして、卒業間際になってくると、『計量経済学』『経済発展論』『経済地理』『格差と教育の経済学』『環境経済論』『金融資産市場論』『ベイズ統計学』『財政論』『産業社会学』『経済政策のミクロ分析』(いずれも実際に履修した科目です)など、いろいろ履修した授業の『知』が出そろいます。

そうすると、財政問題が格差問題と結びつく、環境問題が経済発展と結びつくなど、それまで科目毎に独立していた『知』同士の結びつきが見えてきます。『知』の小グループ同士がくっついて『知』の中グループを創っていく感じでしょうか。そして、最終的に『経済学』という『知』の大グルーピングができる。というイメージです。

そうすると、授業での教授の一言や、教科書の一文が、『経済学』という大きな体系の中に位置づけられ、他の知識とも有機的に結びつき、それを自分の言葉で言語化することで、自分自身の中の活きた言葉として腑に落ちてきます。

それこそが、先日のノートで書いた

そもそも、大卒の能力って何でしょうか。

それは、知識を体系として学び、世の中を批判的に捉え、先行研究の積み重ねの中から、未来へ向けての課題を設定し、根拠に基づいて科学的に調査し、自分なりの思考と論考を深め、それを指導教官や他の学生の評価を受けてブラッシュアップし、自分の思考を論文という形で体系立てて再整理して記述し、プレゼンテーションしていくというスキルです。

これに、繋がっているのではないかと思います。

さらには、これを教養課程で学んだことと結びつけていくと、『経済学』と『政治学』、『経済学』と『生物学』の結びつきなども広く見えてきます。

最初の父の言葉

「宇宙工学でも何でも良いぞ、直接役に立つことより、これが自分にとって何の役に立つかは分らない、つまらない念仏のような授業の方が、人生、あとあとになって効いてくる」

とは、このことだったのかと、後になって、痛切に思います。

卒論について

さて、私の選択した研究会は当時学内でも有数の厳しい研究会として知られていました。シンプルにいいます。卒論は「Wordで100ページ」がマストでした。もともと統計系統なのでグラフや数式表も込みですが、学部でこの量はハードな方だと思います。

私は格差問題について調べていましたが、指導教授曰く「うちのゼミの卒論の要求レベルなら、参考資料や先行論文は30本は必要。当たり外れがあるから、使える資料を30個あつめるなら、歩留まり考えると100個以上の書籍や論文に目を通さないといけない」とおっしゃっていました。

事実その通りでした。何度、図書館のジャングルに潜り込み、大量のコピーをとったか分りません。

無茶苦茶大変だったので、そのことを書こうと思ったのですが、大変すぎて思い出せないです(笑)ただ、手元には製本した卒論と、おびただしい参考資料リスト(そのうち何冊かは思い出として現物を手元に残しています)。そして、もし、残っているとするならば

世の中を批判的に捉え、先行研究の積み重ねの中から、未来へ向けての課題を設定し、根拠に基づいて科学的に調査し、自分なりの思考と論考を深め、それを指導教官や他の学生の評価を受けてブラッシュアップし、自分の思考を論文という形で体系立てて再整理して記述し、プレゼンテーションしていくというスキル

が、手元に残っていれば、と思います。

そして、何より、私なりに『格差社会』への問題意識は『出来る限り個人が持てる可能性を阻害されずに発揮できる社会であって欲しい』という想いなり、それは、今でも、企業経営においても、日々の生活にも、私の基本となる生き方を構築しています。

そんな問題意識が生き方にまで繋がる価値観の変化こそ、『学問』の醍醐味であり、『学問』を通じての『人格の陶冶』であり、学ぶべきことではないでしょうか?

学業以外のこと

こう書くと、学問ばかりやっていたようですが、サークルやバイトもやっていました。サークルは最終的に5つぐらい入っていました。メインが学園祭の実行委員会、その他には、学内マスコミサークル、文化系趣味サークル、インターネットビジネス研究サークル、音楽イベントサークルなどを兼サークルして、それぞれ、今でもつながりのある友人達に囲まれて、充実した生活を過ごしました。

就職アピールのようでアレですが、幽霊部員のようないっちょかみではなくて、『代表』や『会長』などを4つのサークルで勤めました。

特に、4年生では広報局長として関わった学園祭は、来場者が16万人規模で、芸能人を呼んだコンサートも5000人規模、数千万円規模の予算を使って100人規模の、3階層4セクションぐらいある委員組織を組み、プロジェクトを運営する経験は、マネジメントの練習としても、また、純粋に友情の思い出としても、かけがえのない体験でした。

そして理系へ

卒業後、今度はやはり理系の専門知識を学びたいと、同じ大学の別学部を受験し直し、『環境情報学部』にて、コンピューターでの大腸菌細胞のシュミレーションをやることになります。経済学部で学んだ統計の知識も非常に役立ちましたが、理系の話は後編として、また次の機会に書きたいと思います。

最後までご覧いただきありがとうございました。 私のプロフィールについては、詳しくはこちらをご覧ください。 https://note.com/ymurai_koji/n/nc5a926632683