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大学で学ぶことは、明日の役には立たないが、明後日の役に立つ

今週、2つの「大学で学ぶこと」について印象深い記事がありました。

日常業務の役には立たなくても、企業の発展の役に立つ

1つは、日本青年会議所(JC)で昨年度会頭を務められた鎌田長明さんのnote

基本的にはJCメンバーへ呼びかけるnoteですが、印象的な一節がありました。

この議論は「大学教育はビジネスに役立つ」派と、「大学教育はビジネスに役立たない」派の分裂によく似ています。

役立つ派と役立たたない派の両者で違う活動を見ているわけではありません。どちらもJC活動であり、どちらも大学教育を見ています。しかし、考え方が違うのです。役立つ派は、ビジネスという言葉で企業の発展を考えており、役立たない派は、ビジネスという言葉で日常業務を考えています。実際には、JC活動や大学教育は企業の発展の役にたつ事はあっても、日常業務にはほとんど役立ちません。この認識の違いが分裂を生んでいます。

(中略)

大学教育で重点を置いているのは、新しいものを取り込む能力です。大学院レベルになると、新しいものを創り出す能力を磨きます。JC活動でも、新しいものを取り込んだり、創り出したりする活動を行っています。

大学教育やJC活動が役に立つのは、新しいものを取り込んだり、創り出したりする時であり、正しい(であろう)ことを実施できればよい日常業務ではありません。だから日常業務の役には立たなくても、企業の発展の役に立つのです。

日常業務には役に立たない、つまり、今の問題に対する即戦力では無い。では、どんな能力があるのかと言えば、新しい問題を自分で打ち立てる能力にある、という言い方も出来るでしょうか。

専門分野ならば即戦力になる人材を育成する

そして、もう1つの記事とは、日本電産の永守会長の「カンブリア宮殿」での発言

ここで永守会長は、大学を卒業しても「名刺の出し方も分らない」「税金のことも分らない」と述べています。「税金のことも分らない」ということがどんなことかは分りませんが、後述の記事と合わせると税務実務ということになるでしょうか。

そして、こちらの記事になります。

「この大学はノーベル賞を受賞する人を育成する大学ではない。会社に入ったらすぐに英語がしゃべれて、専門分野ならば即戦力になる人材を育成する」

即戦力になる人材、すなわち、日常業務の役に立つ人材を育てようという意欲に溢れています。

大学は現在に対応する即戦力か、未来を創る能力か

鎌田氏と永守氏、それぞれ全く相反する2つの大学観をみてきました。私は、大学は日常業務能力で無く、未来を創る能力の育成の方に賛成です。

今年75歳になる永守会長の年代では、「未来」ははっきりしていました。シンプルにいえば、欧米に追いつけ追い越せ。より多く、より安く、日本という国家の近代化を推し進める時代。

そのような状況では「未来を創る」必要はありません。現在の課題をいかに、ライバルより早く、正確に、目標通りに、実行できるか。それが勝負を分けていく世界です。

そして、そのおかげで、見事、日本は経済大国になりました。高度成長、戦後復興の奇跡。ここまで裕福な国家を作り出した先人の努力には経緯を表するところです。それがあるから、今、衣食住に直ちに困らない生活を多くの人が享受できているわけです。

ところが、「欧米に肩を並べど頭無し」といわれるように、経済大国になったのち、自分たちが「未来を創る」立場になったとき、国家戦略を描くことが出来なかった。その後の日本の経済大国からの転落は論を待ちません。

それでも、大学生に日常業務即戦力を求める企業

しかし、永守氏の世代が、まだまだ究極には人事権を握っており、そのような大学間で学生に「日常業務即戦力」を求める傾向が、今の大学を勉強しないものにしています。

特に文化系学生に「日常業務即戦力」を求めるため、大学での学びが疎かになります。だって、「日常業務即戦力」たかめるなら、明らかに、バイトやサークルの方が、企業で使える経験になります。

実際、私も採用に関わっており、今は、学生の自己アピールのデーターベースなども充実していて、それを定期的に除いていますが、年々、自己アピールにしめる「サークル」「バイト」の割合が増えています。学生時代頑張ったことで、「研究」をあげる子が10人に1人くらい。そして、その1人も「ゼミの代表としてゼミ員を纏め上げました」と、研究経験で無く、リーダーシップやコミュニケーション経験の例として取り上げる、というレベルが文系学生の状況です。理系だとさすがにもうちょっと改善されていますが。

結局、学生に「日常業務即戦力」を求めることが、大学の学びを損なっているわけです。

そして、大学に「日常業務即戦力」を求める人からすれば、『大学で「経営学」を学んだ』というと、商業高校が簿記1級とマナー検定1級だとしたら、簿記S級でマナー検定特級を学んでるかのような期待を抱いて、そして、そうでないことに失望する、『使えない』と判断すると言うことです。

今後は問題を「解決」できる人より、「発見」できる人の価値が増す

さて、話を戻して、なぜ、私が大学には「日常業務即戦力」を求めないのか、それは以下の山口周さんの記事に集約されます。

20世紀後半の数十年間という長いあいだ「問題を解ける人」「正解を出せる人」は労働市場で高く評価され、高水準の報酬を得ることが可能でした。しかし第2回で説明した通り、このボトルネックの関係は、今日では逆転しつつあります。つまり「問題が希少」で「解決能力が過剰」になっているということです。

 ビジネスが「問題の発見」と「問題の解決」という組み合わせで成り立っているのであれば、今後のビジネスではボトルネックとなる「問題」をいかにして発見し提起するのかがカギになります。そして、この「問題を見出し、他者に提起する人」こそがニュータイプとして高く評価されることになるでしょう。

そう、いかに『問題』を定義できるようになるか。それが大学で学ぶことだと、私は、思うのです。

演劇をやっている友人から聞いた言葉で「演劇は明日の役にたたないが、明後日の役にたつ」という言葉がありました。

大学教育も同じではないでしょうか。

今日の話はここまで。

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