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小説「怒りの葡萄」から


小説「怒りの葡萄」の、
再読3回目の途中。

ですが、
気に入った個所、気になる箇所が
小説中にあったので、
二つほど取り上げてみます。

その前に、再読3回目というのは、
読了するたびに、最後のページに、
読み終わった年月日を
ボールペンで書き込んであるので、
これで3回目なのかと気付く次第。

それほど、読んだことも、
すっかり忘れてしまっている。
だから、読むたびに、こんなところもあったのか
と気づいたりする。

しかし、これから引用する文章は、
以前に、ボールペンで、しっかりと
アンダーラインならぬ
サイドライン、傍線が引かれていて、
あとから読んでも、
ここに、昔の自分は、惹かれていたのかと気づくのだけれど、
それは、今でも変わらない箇所。

数多くある中で、2つ。
上下巻のうち、どちらも上巻にある。

一つ目は、 
出所したジョードが、
途中の道端で亀を拾い、幼い妹と弟たちの土産に、と思って
上着の中にしまい込んでやってくるのだけれど、

説教師ケーシーと出会ってから後、
とうとう、それを逃がしてしまう。

その時のジョードの発言。

* * * * *
「いったいあの亀のやつは、どこへ行くんだろうな?」
ジョードは言った。
「生まれてから何度となく亀を見てきただが、
奴らは、いつも、どこかへ行く途中だ。
いつも、どこかへ、たどり着こうとしてるみたいだ」
* * * * *

ゆっくりと引きずるように這っている、
あるいは、
しばしば、じっとしているその姿から、
確かに、亀にはそんな風情が感じられる。

が、人間だってみな、よく考えてみると、
路傍に佇む途中の姿であり、
どこから来て、どこへ行くのか
皆目わからない。

つまり、on The way、
誰もが、途中経過の仮の姿。
ではなかろうか。

二つ目は、
いよいよ、家族のみんなと出会ったジョードだったが、
その土地から出ていかざるを得なくなり、
カリフォルニアを目指すことになる。

中古の自動車をトラックに改造したおんぼろ車に、
十数人が乗っていかなくてはならない。

その時の、ジョードと母親の会話。

* * * * *
彼は訊ねた。
「大丈夫かな、おっ母?」
母親は咳払いした。
「大丈夫かどうかって問題じゃないよ。
やるつもりがあるかどうかの問題だよ」
* * * * *

来年の東京オリンピックのことが頭をよぎった。
いや、これは人生全般に当てはまる問題。

誰でも大丈夫かな、と不安がよぎるもの。
しかし、そのままでは、前には進まない。

やろうという意志があれば、それだけでも前進。
その一歩を進めるかどうかは、
ほんのちょっとした違いかもしれないが、
結果的には、雲泥の差があるのかもしれない。

最後に、
小説の中の文章というものは、
特殊というか、
どこを切り取ってみても、
全体の中の一部として、
あるいは、
数学で言うフラクタル(自己相似形)のように
浮き上がってくる。

引用したこの二つの文章も、
全体の中の、ほんの一部分に過ぎないが、
テーマであるカリフォルニアを目指す家族の姿という
全体に即した動きが、
すでにそこに脈々と表れている。

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