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#03 ボランティア精神ではないけれど

大混雑のキャンパスで、自分の番号のない掲示板を見上げていたのは、2011年3月10日のことでした。

センター試験でリカバリーがきかないほど失敗したことはわかっていたし、この大学への思いを断ち切るために、2日後の後期試験に向けて気持ちを切り替えるために、私は掲示板を見上げに来て、そして、翌日も来る、はずだった東京を去りました。

物凄い横揺れで電車が止まり、そのまま真冬の無人駅で一旦下ろされ、携帯はもちろん無人駅の公衆電話は繋がらず、同じ電車に乗っていた何人かの保護者同伴の受験生は、タクシーで東京へと向かってゆきました。

新品のガラケーのワンセグと、隣の席のひとのPCを覗き見してわかったのは、自分がいるところが、震源から遥かに離れていることと、濁流と、火の海でした。

「東京についたとしても あなたが泊まるはずだったホテルの周りはひとで溢れかえってる あなたが受ける予定の大学は帰宅困難者を受け入れてる だから 電車で待ちなさい」

このケータイの世の中で、祖母から御守りのように持たされていたテレホンカードを使って、実家に奇跡的に連絡がつくと、そのまま、その日は電車で一夜を明かしました。

結局入試には間に合いませんでした。こんな精神状態で受けても受かるはずがなかったや、という諦めと、それでも入試を決行した大学に対する怒りと、早く家に帰りたいという気持ちと。

23時間かかって着いた東京の地で、なぜか売れ残っていた地元紙を手に入れ、その翌日からは計画停電で運転を見合わせることになる地元行きの電車に飛び乗り、そうか家に向かってるのか、という安堵と、新聞を読んで初めて知る惨状に、行きの8分の1の乗車時間じゅう、涙が止まりませんでした。

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そこから私は、ボランティアに行くことはありませんでした。

無関心なわけではない。でも、現地の惨状が報道されるたび、入試というイベントがあったにせよ、たかが車内泊程度で、トラウマになって、不安になっていたことが情けなくて、私は「浪人」を言い訳に、「日常」の傘を差して、しばらく、目を逸らしてしまうことになります。

その時の思いを引き摺っている部分もあって、この冒頭でルポルタージュのように記述してきたことも、実はものすごく抵抗がありました。私程度で、あれが大きな経験だったなんて語ってしまうのに、実際そうだったんだから仕方ない、なんて絶対に割りきることのできない気持ちを、今でも抱えたままです。

一歩を踏み出したのは、それから3年後。葛藤から逃げることを選択してしまった私に、浪人時代の恩師が、声を掛けてくれたからでした。

それからも、不思議と、ボランティアをしようという気持ちには一度もなりませんでした。そうではなくて、私が勝手に、東北の地が大好きになって、もっと行きたくなって、またお会いしたくなって。そして、ただ、またお話を聞きたいと思うひとが何人もできて。少しでもお手伝いして、同じ時間を共有できたらいいなぁと思って。もっとこの人たちの姿から学びたいと思うことが増えて。気がついたら、自分の研究も、その延長線上にありました。

私になにかができるなんておこがましい。先方の時間をいただいているうえに、私はいつも、元気をいただいて、勉強させてもらってるだけなんです。

もし向こうで、私が会いたいと言った時に、お時間を割いてもらえて、そのつながりを少しでも楽しんでいただけていたとしたら、
それはほんとうに、ほんとうに幸せなことです。

その地で生きてゆく人たちに会ったら、言葉の力強さに励まされて、自分はちっぽけだなぁとか、知らない世界がたくさんあるなぁとか、無力だなぁとか、いろいろ考えて。

それじゃあ無力な私が私なりにできることってなんだろうって、少し立ち止まることができるのです。

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2018年3月10日。
私はあのとき思いを断ち切ったはずの大学の学生として、あれから7回目の3月10日を、東北の地で迎えました。

あの目をつぶってきた数年間を取り戻すことはもうできないけれど、
これからはずっと覚えていたい。
そして、会いたい人たちに会いに行きたい。
またいろいろなことを彼らの姿から学びたい。

新築の公民館と、住民が自分たちで線引きをした新たな町内会の図面を見ながら、不覚にも泣きそうになって、改めて決意しました。

これが、私にできる、唯一の恩返しだと思うからです。

まだまだ、勉強、させてください。

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