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#02 「君の文章は本当につまらない」と言われて

優等生作文が得意な子供でした。

全校児童が書く「一人一言」を一緒に考えてあげる。町内会の児童作文。学級通信に載るような日記。読書感想文。生徒会役員の挨拶の代筆。友人の卒業文集の推敲。

どうやって格好いい言葉を使うか。時に旧字を使ってみたり横文字を使ってみたり漢文を引用してみたり。頭がよさそうに見えて適当にプライドを保てる程度の言葉の選択をして、それを体裁よく整えることがもともと得意だったのでしょう。高校の得意科目は現代文。自分の文章錬成能力に特段の疑問も抱かないまま、私は月日を重ねました。

そんなある日のこと。

あるテーマに沿って書いた小論文を匿名で公開し、生徒同士が評価するという機会がありました。

忘れもしません。テーマは歴史の記述。当時浪人生の私は例のごとく、歴史は書かれることで存在するのだと、もっともらしく説きました。

生徒からの評価は好評でした。称賛こそあれ、疑問や指摘は一つも出ませんでした。

ところが、講師は開口一番、こう言いました。

「この文章に何もケチをつけられないようでは、君たちの文章能力はいつまでも上がらないよ」

彼は、私の整えた文章の内容そのものを論破したうえで、私の文章がいかにつまらないかを、そして、いかに体裁だけ取り繕って何も表してなどいなかったのかを、次々と明るみに出していきました。

「なまじ現代文が得意なばっかりにもっともらしく見せているけど、この文章は本当につまらない」

屈辱でした。

多少なりとも文章を書くことには自信がありました。でも、体裁はめちゃめちゃ、誤字脱字だらけだし、あんなに論理展開が破綻してるのに、他の生徒の文章のほうが面白いと言われる。

どうして。なんで。屈辱で、悔しくて、情けなくて、どうしたらいいかわからなくて。その課題は破り捨てました。私は、その講座が苦しくて、苦しくて、出したくなくて、仕方なくなりました。

翌週から、制限時間で書ききることすらできない日々が続いた私を見かねて、彼はこう言いました。

「あなたは歴史が書かれることで存在するのだと言ったじゃない。でもそれはあなたの言葉ではないよね。あなたは、本当は自分で頭を使って考えていないことを、高度な言い回しの引き出しを持っていて、それをうまく使えるお陰で覆い隠せてしまってきた」

「歴史が書かれることがあなたにとってなんで大事なの。あなたにとっての意味はなんなの。どうして書かれなきゃいけないの。どうして口伝でも過去を忘れるでもなくて、間違ってるかもしれないのに、視点が偏ってるかもしれないのに、それでも書くことが大事だって言えるの。」

「あなたが言葉を借りてきたようなどんな評論だって、書いた人には、それを書かなければならなかった意味がある。あなたにはそれがある?」

雷に打たれたようになりました。
そして私は気付いたのです。

「私はなにも考えて書いてなどいなかった」ということに。

それが腑に落ちた瞬間、どこかで安心する自分もいました。優等生作文に踊らされないで、自分の弱さや情けなさや不安定さを文章にしてもいいんだ。考えてもいいんだ。伝えてもいいんだ。

褒められはするけど面白くはないな、と心のどこかで思っていた自分の文章に、何が大きく欠けていたかを、やっと、知ることができたからです。

そして、ちゃんと自分の言葉で「書ける」人間になりたいと、強く強く思いました。

「書ける」ようになるまでには、時間が必要でした。その意味では、今だって、「書けて」いるのかはわからないままです。

だけど、少なくとも、どんなライターの仕事を頼まれたときでも、ちゃんとそれぞれの言葉に意味があるように、書きたいと思うようになりました。

自分が記述した言葉に繊細でありたいと思うのも、言葉に真摯に向き合う学問を選んだのも、言葉を記述する仕事に面白さを覚えたのも、言葉が好きだと思えたのも。

人前で「文章がつまらない」と言われた、あのときの屈辱がきっかけであったような気がしてならないのです。

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