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見られるこども、見るこども ―「画家が見たこども展」で考えたこと

スキゾ型というのは分裂型の略で、そのつど時点ゼロにおいて微分=差異化しているようなのを言う。……言うまでもなく、子どもたちというのは例外なくスキゾ・キッズだ。すぐに気が散る、よそ見をする、より道をする。 ―浅田彰(1984)

 三菱一号館美術館「画家が見たこども展」に行ってきた。入館人数の制限で空いていることもあり、そこそこじっくりと作品を観ることができ満足度は高かったように思う。

 この展覧会では、主に世紀末パリで活躍したナビ派が描いた絵画を扱っている。彼らは「預言者」を示すその名に相応しく、啓示を受けたかのような新しい表現を模索した集団だったが、その作品には時に「こども」が登場する。

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ドニ ≪セザンヌ礼賛≫

 「日本かぶれのナビ」「美しきイコンのナビ」「アンティミスト(親密派)」……各々が様々な異名を持つ彼らの個性は、こどもという一つの切り口で見ても、その作品たちにおいてしっかりと実を結んでいる。

 以下、この展覧会の感想を書き残してみる。1節では「こども」という主題の意味それ自体を扱う意味について、2節ではナビ派全体に通じる「都市とこども」というテーマについて考え、3節では、「見られるこども/見るこども」という2つの視点で、ナビ派の絵画たちをざっくりと観比べていきたい。


1.解体する「躾の絵画」

 ところで、彼らの「こども」絵画に着目する意義はどんなところにあるのだろうか。本展覧会の図録に収録されたペルヌの論文では、19世紀絵画におけるこどもとの比較においてその理由が論じられる。

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サージェント ≪アリス・ヴァンダービルト・シェパード≫

 サージェントの描く少女は、正装で姿勢を正して理想的な姿を示している。といっても、厳格な父に抗って木登りをしたりした快活な彼女にとって、モデルとしてポーズを取り、画家の視線に晒される時間は決して心地よいものではなかっただろう。

 ペルヌはこうした肖像画を「躾の絵画」と称した。そこには、正統な美術のコードと教育的規範が表現され、ひとりのこどもはひとつの「モデル」として、普遍的な「正しいもの」「優れたもの」として成型される。

 対して、ナビ派の絵画は、こどもを異なるしかたで主題化した。

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ドニ ≪赤いエプロンドレスを着た子ども≫

 ボナールやドニは、コダックのカメラでよくこどもを撮ったという。「技術的無意識」を切り出すメディアによって、こどもと特定の理想像の短絡的なつながりは断ち切られる。そして絵画の中でも、スナップショットのように自然に、でも「ありのまま」ではなく描かれるこどもたち。彼らは、躾の絵画の世界から解放されたのだ。

 そしてまた、発信するメディアにおいても、新しい動きがある。唯一無二の絵画から、複製技術たる印刷物へ。後で触れる木版画家としてのヴァロットンなどはその典型だろう。

06_ヴァロットン_女の子たち

ヴァロットン ≪女の子たち≫

 増殖していくイメージ。その中でこどもたちもまた、記号の戯れの中に身を投じることになる。アウラを失ったこどもたちは、何をぼくたちに語りかける/語りかけないのだろうか。


2.都市におけるこども

 展覧会中でも言及されている通り、ナビ派はみな基本的には都市生活者だった。そのため絵画においても、都市におけるこどもの表象が多く登場する。

 以前、パリという都市をまなざしの空間として見てみたことがある。「意味」―というより、意味を失った記号が溢れる街角。そんな空間にあって、こどもとはどう位置づけられるのだろうか。ここではボナールを題材に考えてみる。

04_ボナール_乳母たちの散歩、辻馬車の列2

ボナール ≪乳母たちの散歩、辻馬車の列≫

 屏風の形で飾られている姿が印象的なこの作品において、こどもはいわば街のトリックスターである。解説で「フリーズのよう」と称される、ひたすらに同じリズムで続く馬車の列。それを背景に、女性に連れられたこどもたちは走り回り、遊んでまわる。「日本かぶれ」を象徴するようなたくさんの余白は、明確にこどもの空間である。こどもたちが持っている道具は定かではない(フラフープ?)が、その円形は馬車の車輪の丸と呼応する。

 馬車は止まっているわけではない。都市のスピードを体現するために動き続けている。変化することは都市の宿命だ。しかし、変化することは自由であることを意味しない。その変化は一定の公理系に従っている。階級、全体性、生産の論理。そこから自由なのはこどもだけだ。彼ら彼女らは大人と違う方を向き、自在に逃走線を描いている。

03_ボナール_並木道

ボナール ≪並木道≫

彼の覚え描きの一つひとつに、茶目っ気のある観察や子どもっぽい陽気さが、愛らしい洗練さをもって現れる。……思いがけない、あるいは慣れ親しんだあらゆる情景から、特別な意味を取り出すことを知っている芸術家である。 ―ギュスターヴ・ジェフロワ

 論文からの孫引きとなってしまうが、当時の高名な批評家はボナールの作品を観てこう評したという。きっとベル・エポックのパリの大人たちは、享楽の裏にいつも一握りの憂鬱を抱えていたのだろう。陽気であること、制約から自由であることという意味での「ゲイ」性を、彼らはこどもの中に見たのではないのだろうか。


3.見られるこども、見るこども

 周知のとおり「こども」というカテゴリ自体がいつ生まれたのかにも議論があるが、いずれにせよ、近代社会で自律的にできることが少ないこどもは、大人以上に「関係性」の中を生きている。

 そんな中、絵画におけるこどもをどういった関係性のなかに描くか、という点は、画家の発するメッセージ(あるいは、発されていないメッセージ)を読み解くうえでも重要な気がする。

 一方には、家族やそれに準ずる存在―「親密圏」におけるこどもを描いた絵画がある。文字通り「親密派」と呼ばれたボナールにはそうした絵画が多い。

07_ボナール_家族の情景

ボナール ≪家族の情景≫

 ボナールらしい平面的な画面構成のこのリトグラフには、喜びのムードが溢れている。ぼくたちを含め、あらゆる視線がこどもに向けられている。この子は何を考えているのだろうか。この子にしてあげられることはあるだろうか。そんなことを大人はつい考えてしまうし、まさにその慈しみの気持ちこそがこの絵画の主題だろう。

 また、「美しきイコンのナビ」と呼ばれたドニは、宗教的な荘厳さをたたえた母子像を度々描いた。

08_ドニ_青いズボンのこども

ドニ ≪青いズボンの子ども≫

 言うまでもなく、これは聖母子像のオマージュだ。背後の壁にかかっているのも、ボッティチェリの聖母子像らしい。青白い色調は、ここでは冷たさを表象するというよりも、静寂に包まれた愛の形を際立たせている。

 特にドニの絵画においては、こどもは特別何かの行動や表情を見せているわけではない(むしろ、この独特の曖昧に描かれた表情は、他の作品と併せ、議論の的ともなるところらしい)。しかし、それを慈しむ大人の表情と併せることで、こどもという存在のもつ意味が完成されている。いわばここで、こどもは「見られる」存在としてある。

 必ずしも「見る」側を捉えていないこのような写真でも、本質的な描かれ方は同様だ。フレームでは捉えられていないが、ぼくたちは写真を撮るボナールや周囲の家族の温かい目線を容易に想像することができるし、それに同化することもできる。

11_ボナール_犬を抱きしめる後ろ向きのルネ

ボナール ≪犬を抱きしめる後ろ向きのルネ≫

 対して、この展覧会においてもう一つ見られる方向性が、社会―親密圏と対置した意味での「公共圏」のなかでこどもを描くというものだ。2節で触れたボナールの絵画もそれに当たるだろう。

12_ヴュイヤール_乗り合い馬車

ヴュイヤール ≪乗り合い馬車≫

 ヴュイヤールのこの絵画は、かわいらしいこどもの所作を描いているが、そのこどもの目は都市の乗り合い馬車という空間において具体的な意味を持っている。移動する馬車の中で、移り変わる街の景色。そこに向けられた無邪気な好奇心をこの1枚は見事に表現している。

 また、本展覧会の出展作品ではないが、こんな作例もある。

10_ヴュイヤール_公園

ヴュイヤール ≪公園≫

 この公園を描く絵画について、イザベル・カーンは図録中の論文でこのように言及する。

アンティミスム的な表現の範疇にとどまっているボナールに対して、ヴュイヤールとヴァロットンは公園という場の社会性に関心を抱いた。そこでは子どもたちが、大人との相互関係によって役割を演じるからである。 ―カーン(2020)

13_ヴァロットン_公園、夕暮れ

ヴァロットン ≪公園、夕暮れ≫

 都市の喧騒を免れて、束の間の安息のために公園で往来する様々な社会階層の人びと。こどもはその中で快活に遊び続ける。こうした絵画においては、必ずしも大人たちの目はこどもの方を向いていない。むしろ、親密圏から解き放たれたこどもたちが自主的に何を見て、何を感じているかにフォーカスが当たっている。ぼくたちから見えるこどもの在り方も、先ほどのボナールやドニの絵画におけるそれとは変わって来るだろう。

 そして、公共圏におけるこども、という見方で注目すべきは、やはりこのヴァロットンの版画シリーズだ。

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ヴァロットン ≪息づく街パリ≫口絵

 このシリーズにおけるこどもは、大人との関係の中で、明確に大人と区別されて描かれる。そしてその視線には常に、社会への強烈な風刺が込められている。

14_ヴァロットン_事故

ヴァロットン ≪事故(『息づく街パリ』より)≫

15_ヴァロットン_可愛い天使たち

ヴァロットン ≪可愛い天使たち≫

 都市で日々起きる、物珍しいことがらたち。ある日は馬車による凄惨な事故、ある日は警官による浮浪者の補導。無邪気なこどもたちの視線は、それらに平等に、残酷に注がれる。こうしたヴァロットンの版画において、こどもはこども“らしからぬ”シニカルな目線を内面化している。しかし、それは単なる大人の目線のこどもへの投影ではない。確かにこどもは、都市で起きるいざこざに対して、こうした視線を向けていたのだろう。

 これらの作品において、こどもは確実に、ときに大人以上に世界をよく見ている。彼ら彼女らは、まなざしの対象ではなくまなざしの主体、「見る」存在となっているのだ。


4.ここではない遊び場へ

 見られるこども、見るこども。2つの視点を持ったこどもの絵画がこの展覧会には散りばめられていた。

 「見られる」こどもは、親密圏における温かい感情のシャワーをぼくたちに見せてくれる。

 一方、ぼくがより気になったのは、「見る」こどもとして紹介した絵画たちだ。「見る」こどもの絵画は、時に残酷な社会の在り方をありのままに伝え、かつそれについての疑問をぼくたちに投げかけてくる。パラノイア的に追い求められる貨幣、速度、安全、透明性。そうした公理系の凝り固まった価値から距離を置き、ぼくたちは彼ら彼女らと共に、別の遊び場の可能性を探るのである。

16_ヴァロットン_動く歩道

ヴァロットン ≪動く歩道(『万国博覧会』より)≫

 ナビ派よりすこし下った時代、稀代の天才ピカソは「こどものように描くこと」を目指したという。たしかに、フォーヴィスム以降の絵画においては、大胆さや「遊び」が世紀末以上に溢れている。

 こどもの可能性に注目したナビ派の画家たちは、まさにそのモダン・アートの流れの先駆だったといえるのかもしれない。躾の絵画を抜け出して、アウラを脱ぎ捨てて、こどもたちは逃走する。めくるめく都市の中で、まだ見ぬ明るい倒錯の可能性を求めながら。

17_ボナール_大装飾画、街路風景

ボナール ≪大装飾画、街路風景≫

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