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リアリティの水面を切りサケ――メカラウロコさんの個展で考えたこと

鮭が海から川へ向かうのは、遺伝的特徴によるため、一見すると彼らは迷うことなく川に進んでいるように見える。しかし、鮭の先祖は元々川に生息していたらしい。鮭に個性があるとするならば、今の鮭たちの中には、私と同じように川へ戻るかどうか悩んでいる鮭もいるかもしれない。

メカラウロ子HP

 ぼくたちは自分たちの人生において,子どもをつくるということについて,やるにせよやらないにせよ深く考えるよう言われている.そして同時に,数えきれないほどの"ほかの"生き物の子どもをつくるという営みと深く考えずにかかわって生きている.直接従事している人以外は日々意識することなく,魚を養殖し,家畜を育て,果物の花を受粉させている.
メカラウロコさんの個展「鮭らは海から川へ―フェミニズムの波を漂う―」4月24日(日)まで!開催おめでとうございます!)では,こうした自明性について考える機会をいただいた.アート/批評にもフェミニズムにも造詣が深くない自分だが,簡単に感想(色々考えることがあったのでいち側面だけだが)を書いておこうと思う.
(注意:CGアニメ作品のネタバレを若干含みます!)

 「子は授かりもの」――久々にこのフレーズを聞いたのは,鮭が子どもをもつことについて自問自答する作品の前でだった.「授かりもの」,到来するもの.何か,自分の力ではどうしようもない要因によって子がもたらされるというニュアンスである.

Youtubeなどの早口動画をメディア的なモチーフにしているという作品.
鮭たちは軽快に生殖と生をめぐるテーマを語る

 しかし,人間――われらの種――の生殖もある意味でテクノロジーにつながれ,「自然」ではないかたちに成型されている.そもそもセックスをしないこともできるし,避妊技術はそうとう発達している.また,逆に「授かりもの」がなかなか訪れない人向けに,不妊治療やその他の生殖補助医療(ART)が用意されている.
 こうしてテクノロジーによる操作可能性は増大しているが,それが人を必ずしも「自由」にするとは限らない.子どもを持つべきかどうかという決断には,多くの社会・経済的プレッシャーが必ずかかわっている.ちょっと考えるだけでも「何か口から出そう」になる.「授かりもの」で済んでいた自然の領域の問題が,徐々に自分たちの,社会的な決断の領域に入り込んでくる.
 展示のなかのある鮭は語る.「人間の子づくりは面倒くさい」.たしかにそうかもしれない.語られているように鮭たちがほんとうに「本能」から子をつくっているのなら,そこに決断や操作は介在しない,のかもしれない.鮭たちはぼくたちの自明視している営みの「面倒くささ」を海の中から,川の中から,そして鮭ぶし工場の中から,見つめてくる.

2本のCGアニメ作品.「鮭女房」は実際にある伝承を現代風にリメイクしたもの

 しかし,それだけでは終わらない.メカラウロコさんの鮭たちは,人間との境界――水面を切り裂いてくる.
 たとえば鮭が人間と共同生活をおくるアニメ作品.そこで鮭は子どもを慈しむ人間の様子を見て,「食べられること=幸せ」だと信じて行ってきた自らの生と生殖という営みの自明性を覆される.また別の作品では,スーパーの魚売り場の人間の店員と切り身になった鮭が,「本当は食べられたくないかも」などとああだこうだ議論を始める.
 実は鮭の生殖もまた,別の何かによって「自然」ではないかたちに成型されているのかもしれない.たとえば養殖されている銀鮭は,いつの間にか「人間に食べられることが幸せ」と刷り込まれて一生を過ごしているのかもしれない.それはじつに社会的な,ことなる種のあいだの権力の問題でもあり,そしてそれは人と人のあいだの問題と相似形をなす.

2階に登るときに使うオリジナルのスリッパ.オスとメスで顔が違うらしい

 思えばぼくには,人間の繁殖は「保健体育」ないし「家庭科」の人生設計のマターで,他の生物の繁殖は「理科」のマターというイメージがある.「理科」はどちらかというとテクノロジーによって操作する客体,「保健体育」「家庭科」は主体としての各自が真剣に考えるべきものについての科目というニュアンスに感じる.
 しかし,鮭の生殖も鮭からみれば当然「保健体育」だ.そして,その営みにぼくたち人間の営みもつながれ,有形無形のプレッシャーを働かせているのかもしれない.知らぬ間に"みんな"が共有している(あるいは,共有した気になっている)リアリティは,疑問視されないままみんな自身を縛っていく.

 メカラウロコさんのえがく鮭たちは,驚くほど軽やかにコミカルに,ぼくたちに投げかけてくる.イクラ考えてもわからない,でもサケられない問いたちを.


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