失われた球場の跡地を巡る〜西宮、藤井寺、森ノ宮、難波〜
関西を本拠地にするプロ野球の球団は現在2球団で、ご存知の通り、阪神タイガースとオリックス・バファローズです。
それぞれの本拠地は阪神甲子園球場と京セラドーム大阪。
野球以外でも、イベントや他のスポーツの大会などで使用されています。
そんな関西にはかつて、プロ野球の球団が使用した球場が他にもありましたが、その多くは時代の流れと共に消えていきました。
球場の跡地には新たな施設が建ち、姿形は大きく変化したものの、今でも痕跡を辿ることが出来ます。
というわけで今回は、関西の球場の跡地が、現在はどうなっているのかを実際に行って調べてきました。
その時の様子を収めた写真をご覧いただきながら、情報や歴史を交えて紹介していきたいと思います。
●阪急西宮球場(現:阪急西宮ガーデンズ)
開場 1937年
閉場 2002年
【主な使用球団】阪急ブレーブス
1988年にオリックスに球団譲渡するまで、阪急ブレーブスの本拠地として親しまれてきた西宮球場。
阪急グループの生みの親である小林一三の命により、1937年に開場されました。
1990年まではオリックス・ブレーブスが使用していたものの、翌91年にチーム名を「オリックス・ブルーウェーブ」に改称したのと同時に、本拠地もグリーンスタジアム神戸(現・ほっともっとフィールド神戸)に移転されました。
しかしその後も、アマ野球やアメフトの試合、コンサートなど、2002年に解体されるまであらゆるイベントで活用されました。
ちなみに最後に公演を行なったアーティストは2002年8月のSMAPです。
そんな西宮球場。現在は阪急西宮ガーデンズという商業施設になっているということで、早速見に行ってきました。
阪急・大阪梅田駅から神戸線に乗り、西宮北口駅に到着。
住みたい街ランキングでは常に上位の西宮北口。
梅田と三宮のちょうど中間で、どちらからも特急に乗れば10分ちょっとで着きます。
観光地ではないですが、大都市に近い便利さが魅力です。
西宮北口駅から直結の通路を歩き、西宮ガーデンズに向かいます。
阪急西宮ガーデンズは、2008年に開業。
オープン時は商業施設として西日本最大級、全国でも3番目の大きさだったそうです。
西宮や芦屋など高級住宅街に位置することもあり、価格も少しお高めの店が多いらしく、施設内もどこか落ち着いた雰囲気があります。
この西宮ガーデンズ内で、最も球場だった頃の名残を感じられる場所が屋上のスカイガーデンだそうで早速行ってみます。
人工芝が敷かれたスカイガーデンは子供連れの憩いの場になっていましたが、どこか野球のグラウンドも彷彿とさせてくれます。
「名残はどこだろうか、、」と探してみると早速見つけました。
かつて西宮球場に置かれていたのと同じ位置にあるホームベース。
「阪急西宮スタジアム」と書かれたプレートも飾られていました。
施設内の目立ったところになく、屋上の端にちょこんとあるあたり、ガチ感が強まっていいですね。
「このイベント観覧席の椅子が、球場の実際の観客席と同じ位置なのか、、?」と思いましたが、どうやら違う様子。
かつてのスタンドの名残はここだろうという場所を見つけました。
ネットで調べてみても、ホームベースのことはいろんな方が取り上げているものの、スタンドがあった位置までは情報が得られませんでした。
でも、僕が思うに絶対にここだと思います。
ホームベースの位置や、ここが4階という高さから考えて、おそらく写真の芝生部分がバックネット裏のスタンドに決まりでしょう。
この場所で、観客が試合に熱狂していたんだなぁ、、と感慨深くなりますね。
球場の名残から当時の様子に思いを馳せることができ、一人でめっちゃ興奮しました。
次は、5階にある阪急西宮ギャラリーを少し覗きます。
最後は外に出て、周辺をぐるりと歩きます。
「球場感」は全面には出ていなくとも、痕跡はしっかりと残っていました。
個人的にはスカイガーデンでテンション爆上がりしたので、同じ感情になりたい方は是非とも行ってみてください。
●藤井寺球場(現:四天王寺学園校舎)
開場 1928年
閉場 2005年
【主な使用球団】近鉄バファローズ
藤井寺球場の始まりは1925年と古く、当時の大阪鉄道(現在の近鉄)が人を呼び込むため藤井寺市にスポーツ施設として開場しました。
近鉄球団の発足は1949年なので、それまでは学生野球の球場として使われていました。
ライバル会社である阪神が運営する甲子園球場を意識してのものだったそうです。
球場建設ののち、不動産経営も担う近鉄は、「大阪の郊外にある静かな住宅街」を謳い文句に、球場周辺の宅地開発を推し進めます。
建設当初はプロ球団が利用することを想定していなかった藤井寺球場。ナイター設備がなく、近鉄の本拠地でありながらも、デーゲーム以外のほとんどの試合を森ノ宮の日生球場などで開催していました。
1970年代になるとAクラス入りが続くなど、強くなってきた球団のためにナイター設備のための工事を計画しますが、周辺住民からの猛反対に遭います。
そら閑静な住宅街やと思って移り住んできたわけですからね。近鉄が自分で自分の首を絞めたのです。
しかし長年の調整の結果、1984年に悲願のナイターが取り付けられるわけですが、本球場での日本シリーズの開催は1989年の一回だけ(日本シリーズはナイター設備がないと開催出来なかった)。
そして、1997年に完成間もない大阪ドーム(現在の京セラドーム大阪)に本拠地を移転します。
その後は二軍の本拠地として利用されたものの、2004年には球界再編により近鉄バファローズ自体が消滅。
2005年に、球団主催のイベントがないまま閉鎖が決まります。
なんとなく切ない歴史を抱えた藤井寺球場。
現在は、四天王寺学園が運営する学校の校舎になっているそうなので実際に見てきました。
近鉄の大阪阿部野橋駅(天王寺のこと)から準急に乗って15分弱。
きっかけがないとまず訪れないであろう藤井寺駅に上陸します。
地図アプリを見ながら線路沿いを西に進むと、すぐに校舎が見えてきました。
閉鎖が決まった2005年に、すぐさま跡地を買収したのが四天王寺学園。
現在は四天王寺小学校(2009年開校)、四天王寺東中学校(2014年)、四天王寺東高等学校(2017年)の校舎になっていました。
かつての周辺住民が望んだ通り、閑静な文京地区になりましたね。
ちなみに本家の四天王寺中学校・高等学校は、大阪市天王寺区の四天王寺境内にあります。
当たり前ですが、球場の名残は全くと言っていいほどありませんでした。
商業施設なら、外観から当時の姿形がなんとなく想像出来たりしますが、そんな面影は一切なく、綺麗な新築の校舎があるだけでした。
唯一と言っていいほどの“証”は、校門東側にある藤井寺市、近鉄、四天王寺学園が三者共同で作ったモニュメントです。
少しは記録を残していたことがわかりホッとした後は、周辺を歩きます。
球場敷地の南側は、商社の丸紅が買収しマンションを建設することに。
マンションは今も現役バリバリですが、ここで新たに球場の名残を発見しました。
マンションをよくみると、外野スタンドの外周に沿った形をしているのです。
高さも相まってここだけ球場を外から眺めているような気分にさせられました。
別にこの形でなくてもよかった気もしますが、道路に沿ってくっきり作った方が良いとかあったんですかね。日当たりとか。
なんにせよ、ここにだけ球場感を残していてくれた感じがしてうれしかったです。
正面まで戻ってくると、旅館の存在に気づきます。
住宅街と学校という、今の藤井寺駅には絶対に必要がないはずの旅館があるということは、球場があった時代に選手、もしくは来場客が利用していたんでしょうね。ちゃんと調べてはないですが、そんなことも思い浮かべて勝手にワクワクしますね。
球場の名残は強くは感じなかったものの、マンションの外周に少し当時の片鱗を見せられましたし、藤井寺球場が歩んだ歴史から、不動産開発の実態も少しわかった気がして、調べてみても面白かったです。
●日本生命球場(現:もりのみやキューズモールBASE)
開場 1950年
閉場 1997年
【主な使用球団】近鉄バファローズ
「日生球場」の名で親しまれた日本生命球場は、その名の通り、大阪に本社を置く日本生命保険によって造られ、戦後間もない1950年に完成しました。
戦時下の爆撃で焼け野原になった広大な土地に造られた日生球場は、自社の硬式野球部が利用したり、大学野球や社会人野球の大会で利用されるなど、「アマチュア野球の聖地」と呼ばれるまでになります。
プロ野球の公式戦でも使われますが、プロの試合を禁止し、アマチュアメインで使っていた時期があるなど、筋金入りの聖地です。
先述の通り、ナイター設備のない近鉄が本球場を使用し(日生球場のナイター取り付け費用は近鉄が出した)、1958年から、藤井寺球場にナイターが完備された1984年までの長い間、実質的な近鉄の本拠地として運営されていたものの、1997年に閉鎖されることになります。
老朽化や施設の維持費などの問題、また舞洲や南港などにアマチュアが使用する野球場が出来たことも要因だそうです。
大阪市内に位置し、アクセスの良さなどからプロ球団も注目された日生球場。
現在はもりのみやキューズモールBASEという商業施設になっています。
JR大阪環状線や、大阪メトロ中央線・長堀鶴見緑地線と、複数の路線から来れるのが森ノ宮の魅力。
地下から2番出口を上がるとすぐ、そこにはキューズモールがあります。
球場解体後は、コインパーキングやマンションのモデルルームなどを経て、2015年に開業したもりのみやキューズモールBASE。
正式名称に「BASE」が入っていることからも分かる通り、数ある球場跡地の中で、ここが最も野球場の痕跡を意図的に残しています。
まず入り口の上にはいくつもの旗が掲げられていて、野球場を外から見ている気分にさせてくれます。
さらには施設周辺の歩道の舗装パネルが、球場の模様になっています。
解体後すぐには球場跡地のモニュメントなどが作られなかったため、こういった形で野球場があったことを示したようです。
施設内にも野球の痕跡がたくさんありますが、この施設は当初から、「スポーツに特化した商業施設」を目指していて、フットサルコートやジムもあります。
中でも屋上部分に設置された「エアトラック」は、全国的にも珍しい商業施設内にある人工芝のランニングレーンで、夜間は照明もついており、誰でも自由に運動ができるように解放されています。
平日の昼間だったからなのか全然誰も走っていませんでした。
夏はめちゃくちゃ暑そう。春や秋にランナーがいそうですね。
その後は周辺をちょっとだけ歩きます(めっちゃ暑い日で汗だく)。
西側に歩くと交差点が。
ここにもキューズモールの入り口があり、特徴的な段差がありました。
ネットで見た写真と似ていたので、またしても一人で大興奮。
ここに球場があったんですね。。みんなここから試合を見に行ってたんだなぁ。。ハァハァ。。
森ノ宮のキューズモールには、「ここに球場があったんだよ」という名残が全面に出ていました。
設計そのものに意図があるのですごくわかりやすいです。
球場跡地の中でも一番イメージしやすいかと思うので、「イメージさせてよ」という方はぜひ行ってみて下さい。
●大阪球場(現:なんばパークス)
開場 1950年
閉場 1998年
【主な使用球団】南海ホークス
長年、堺市の中百舌鳥に本拠地を構えていた南海ホークスですが、立地が悪かったことから使用せず、戦後に入ると甲子園を借りるなど、大阪にほぼ本拠地がない状態が続いていました。
そんな中、GHQの提案もあり、大阪市内に新球場建設の計画が浮上。
現在の中之島辺りの案もありましたが、梅田をターミナルとする阪急、阪神側から猛反対に遭います。
結局、「難波やったらいいよ」という流れになり、南海難波駅南口の専売局(現・日本たばこ産業)の工場跡地に建設。
約8ヶ月の突貫工事の末、正式名称「大阪スタヂアム」、通称「大阪球場」は、1950年に開場されます。
50年代は常勝軍団で阪神を凌ぐ人気があり、テレビ中継も頻繁に行われるなどまさに黄金期のホークス。
また、関西初のナイター設備を導入した球場であったことから、先述の通り、近鉄などが準本拠地として使用するなど(一時期は阪神も)、大阪市内の一等地にある球場として重宝されました。
しかし、70年代以降の弱体化により観客動員は減少。そして、阪急や阪神、近鉄と違い、球場の最寄駅のなんばにライバルの電鉄会社が多く(JR、地下鉄、近鉄)、来場客の運賃収入がそこまで見込めませんでした。
難波という土地が便利すぎたことによる弊害ですね。
1988年に南海がダイエーに球団を売却し、本拠地が福岡市に移転されます。
1990年まではホークスの主催試合で数試合行われたものの、野球場の役割を終えた後は、住宅展示場やミュージカルの会場などで活用されます。
1998年の南海主催の野球イベントを最後に解体され、2003年に複合商業施設、なんばパークスを開業します。
大阪に住み始めてから慣れ親しんだパークスを、改めて深掘りするべく行ってきました。
中に入る前にまずは自転車で外周をぐるりとします。
なんばパークスの外観は、球場の形が丸ごとそのまま残っているわけではないですが、ところどころで球場感を意図的に残してくれています。
サイズも相まって、「え、ホンマにこんな難波のど真ん中にこんなデカい球場があったん??」と思わせてくれるには充分な役割を果たしていると思います。
南海電車の高架をくぐり抜け東側を沿うように進みます。
ここからはより大阪球場を想起させてくれる風景が見られます。
完成当初は「昭和の大阪城」と呼ばれたのにも納得ですね。改めて見るとすごいです。
パークスの建物と線路の隙間に作られた「Carnival Mall」にもショップが並びます。
ここが一番球場の外観を感じれる場所だと思います。
右側にテナントが入っていますが、この部分は大阪球場ができた当初からあった部分で、球場に商店を組み込むスタイルは大阪球場が最初だそうです。
さすが都会の球場のアイデアって感じですね。
では、中に入ってみましょう。
パークスの魅力は中にあると言っても過言ではないくらい、実に特徴的なデザインをしています。
設計はアメリカ人建築家のジョン・ジャーディ。六本木ヒルズやキャナルシティ博多も手がけた人物です。
2階の「キャニオンストリート」は、その名の通りグランドキャニオンをモチーフにしたもの。
何十回と通った場所ですが、改めて見てみるとすごい空間ですね。
他ではあまり見ない曲線美が来場客を迎え入れます。
緑の多さもパークスの魅力。屋上は庭園のようになっていますが、立体的な作りで、見る者に常に新鮮な印象を与えてくれます。
毎回ここに来るたび「世界でもなかなかこんな場所ないやろ。。もっと評価されていいやろ。。」と思っていましたが、すでにしっかり評価されていました。
アメリカCNNの「世界で最も美しい空中庭園トップ10」や、日本のコンクールで国土交通大臣賞などを受賞しています。
天気の良い日は居るだけで気持ちいい、難波のど真ん中にあるオアシスです。
9階には「南海ホークスメモリアルギャラリー」があります。
ここには球団の歴史を物語る展示物が多く所蔵されており、関西の他の球場跡地と比べて、一番規模が大きいと思います。もちろん無料です。
なんばパークスは、難波という都会のど真ん中にあるので、他の跡地より「ここにほんまにあったんか!?」という驚きを感じますが、建物の外観がめちゃくちゃ球場なので、迫力や臨場感を一番感じるのではないかと思います。
迫力好きの方はぜひ訪れてみてください。
個人的にはアパレルの品揃えが充実しているのでオススメです。
おわりに
以上が、失われた球場の跡地巡りでした。
今回4つ回ったのですが、どれも駅に近いことがわかりました。
その理由としては、球団を作ったのが全て電鉄会社だということです。
戦後発達した電車業界が、集客のため自社の沿線に球場ごと作り(日生球場は電鉄会社ではないが)、球団ごと運営したんですね。またその周辺の不動産も買取り、宅地開発などを担ったのも面白いですね。
当時の経済状況も学べたので、とても勉強になりました。
球場という性質上、やはりどうしても規模が大きいので、跡地の利用も大きな施設になるのが自然な流れです。
なので、その街にあった揺るぎない事実、歴史として、今でも存在感を放っているのが球場跡地の面白さかなと思いました。
電車に乗ればどこでも楽に行けるので、興味ある方は是非とも足を運んでほしいと思います。
その時は僕と同じように、当時の様子を妄想しながら楽しんでいただけたらなと。
それでは、また!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?