「価値あるオタク」という名の称号
ジョハリの窓を覚えているだろうか。
高校生のときに授業で学んで以来、頭のなかでこれを思い浮かべながら人と会話をしている。「やっぱり松永はそうだよね」と言われ、自分でも自覚がある場合「これは開放の窓(自分も他人も知っていること)か」というように。
ジョハリの窓をとくに意識していたのは大学生のとき。たしか就活のセミナーだったと思う。当時担当してくれた先生がこう教えてくれた。
この話を聞いて、わたしは「盲点の窓だな」と思った。自分は気づいておらず、他人が知っている自己の部分。もちろん短所もあるが「自分の知らない長所を聞き出して、面接に役立てましょう」というようなことを、セミナーの先生は語っていた。
社会人になり、自分の話をする機会はたしかに減った。
社会人での「話す」は商談でのアプローチや会議での発言だ。プライベートの話をするとしても、あくまで”付き合いとして”が大半だと思う。
そしてたとえ友達相手でも「わたしってどういう人?」と自分の印象を聞くことはほぼないと思う。少なくともわたしは就活以来していない。
ふとした会話のなかで盲点の窓が開かれているのかもしれないが、覚えていない。適当に受け流しているか、あまり嬉しくなかったか……。いずれにせよ、記憶にとどまっていない。
そんなふうに考えていたのだが、この前久しぶりに「盲点の窓だ」と感じたできごとがあった。
2月中旬ごろの話である。元同期から「親友と話が合いそうだから、3人でご飯にいこう」と誘われた。
その親友(以下S)のことは以前から聞いており、要約するとわたしと同じくオタクだが、ハマっているコンテンツはまったく別だった。漫画、ライブ、音楽鑑賞が好きなわたしに対し、Sは新日本プロレス、競馬、そしてソシャゲ。見事に被っていないのである。
しかしわたしは、ある程度話を合わせられる自信があった。「推しからの供給」を利用するのである。
わたしはゲームをするのも、ゲーム実況動画をみるのも好きだ。とくに応援しているゲーム実況者グループがあり、そのメンバーのひとりは格闘技好き。競馬とソシャゲに関してはそのジャンルのゲーム実況動画があり、視聴したことがあった。深くはないが、少しは話すことができる。
「わたしの推しているゲーム実況者から得た知識なんだけど」と切り出し、覚えている内容を話した。するとSは「それは○○だね!」「実際はちょっとちがうんだよ」「わたし○○ってキャラクターが好きなんだけど知ってる?」とたくさん話してくれた。トークが盛り上がったのである。
ひとしきり会話が弾んだあと、Sからこう言われた。
価値あるオタク……??
わたしは思わず聞き返し、元同期はとなりで爆笑。そんなわたしたちの反応にまったく動じないSは話を続けた。
身近に同じ趣味の人がおらず、はじめて話が通じたこと。どんな話題でもわかってくれ、そして共感してくれたこと……。それらがとても嬉しかったらしい。
「だいたいオタクは自分の好きなものの話しかできないけど、松永さんは人の好きなジャンルも話せる。そんなオタクってなかなかいないよ!価値あるオタク!!」と熱弁された。さすがにおもしろくなってきて、元同期といっしょにわたしも笑った。
Sの言葉を聞いているとき、久しぶりに「盲点の窓だ」と思った。その窓が開いた先は、とんでもなく明るかった。
わたしは自己肯定感が低い。くわえて猜疑心が強く「頼りにしているよ」「いつも助かっているよ」と言われても、本当かな、いい気にさせて騙そうとしているんじゃないか……と疑ってしまう。
こんなことを言えば大半の人はフォローしてくれるので、思うだけで口にはしない。それがたとえ嘘であっても、だ。「そんなことないよ」などといった、社交辞令という名のカードを切り出すにちがいない。
だがSのくれた「価値あるオタク」は、その言葉のとおりに受け取った。Sが真っ直ぐにわたしを見て、何度もすごいよとほめてくれて、価値があるだなんて言ってくれて。
わたしは価値があるのだなと、このままの自分でいていいのかもなと思えた。自分を久しぶりに肯定できた。素直に嬉しかったのである。
「価値あるオタク」の称号を手に入れたわたしは、少しだけ強くなった気がする。
やっぱりダメだな、うまくいかないなと感じることは山ほどある。だがそのたびにSのくれた「価値あるオタク」の称号がキラキラと輝き出す。スーパースターをゲットした無敵マリオのように、いけいけドンドンの気分になれる。
素敵な言葉をくれたSと、出会わせてくれた元同期。本当にありがとう。価値あるオタクはこれからも頑張っていくよ。
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