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「選択」を科学する経済学~選択の構造から、より適した選択を導く考え方~「経済学で語りたい」#3

「なんでこんな選択をしてしまったんだろう…」
そんな風に後悔することはありませんか?
私はしばしば後悔することがあります。
それこそ10年、20年以上前の自分の過ちを思い出し、「うわあああああ…」と嘆きたくなることもよくあります(いや、自分の性格が、未練がましかったり、後ろを振り返りがちなところはあるのだと思いますが…)。
まあ、それでもその過去を受け止めながら、今を楽しく日々過ごしているんですけどね。

さて、今回のテーマは「選択」です。学術的には「意思決定」という呼び方もありますが、今回はなじみのある選択という言葉で紹介させてください。
実は経済学の教科書の中にはあまり大々的に「選択」の話が出てくることはありません。
私個人は、結構、大事な話であると思うのですが、経済全体の理論の説明に終始することが多いので、その裏で行われている個々の選択に関するお話は捨象されているきらいがあります。
けど、そんなに難しい話ではなく、一般的にも理解しやすい話だと思います。
というか、結構、自明で当たり前の話を、色々とこねくり回しているだけかも…ただ、選択というものを一般化するためには必要な話だと思って理解していただければ幸いです。
後半は行動経済学の要素も入り込んできますし、より適した選択を行うための工夫についても紹介します。
よろしければ今回もどうぞお付き合いください。

それではどうぞ。


「選択」を科学する

私たちは何らかの目的を持って生きています。
人によって違いもありますし、また程度の差もあると思います。
それは「幸せになりたい」といったような長期的、抽象的なものから、「お昼ご飯を食べたい」といった短期的、具体的なものまで様々です。
しかし、そのために座して待っているだけで、その目的が達成されるわけではありません。
往々にして何らかの「選択」を行っているのです。

また、その選択も個人だけに限りません。
例えばある目的を達成するために政府が政策を選択する、企業が商品開発や経営方針を選択する、といったように様々なレベルの主体が選択をおこなっています。

さて、想像しやすいように個人レベルの身近な選択の話にしましょう。
例えば、今日の昼ご飯に何を食べるか迷っているとして、中華とうどんとハンバーガーの店が目の前にあったとして、うどん屋を選んだとします。
その背景には一体、どういう思いがあったのでしょうか?
「うどんの気分だったから」「うどんが好物だから」「値段が安いから」「なじみの店だから」「行ったことのない店だから」「口コミがいいから」「あのハンバーガー店が苦手だから」…。
そこにはこのようにあらゆる思いが考えられそうです。

経済学において、個人は選択の局面で2つのことを考えます。
1つ目はその選択を行うことでどのようなプラスが自分に発生するかということ、2つ目はどのようなマイナスが生じるかという事です。

プラスの側面を「効用」といいます。正確にいうならば選択前に想像する効用なので「期待効用」と言った方がいいかもしれません。
この期待効用は不確実性を伴います。例えばうどん屋のなかでも、行ったことのあるチェーン店だと期待される効用の幅はかなり狭いレンジに落ち着きそうですが、行ったことのないお店だとその期待される効用の幅は大きそうです。
もちろん、その期待効用は先に挙げた様々な個人の要素や好み(嗜好)に影響を受けます。うどんが好物の人の期待効用は、そうでない人より高いでしょう。また、口コミを見て、評価が高ければ期待効用は高まるでしょうし、評価が低ければ期待効用は下がりそうです。

次にマイナスの側面ですが、これを「機会費用」といいます。
機会費用というのはシンプルに、その選択で失うお金だけを指すわけではありません。例えば時間であったり、心理負担であったり、その選択をすることで失われる別の選択手段の全てを含みます。
機会費用にも不確実性を伴います。お金に関してはかなり具体的に想像できますし、時間に関してもそんなに大きな幅のずれは生じないでしょう。
ただその他のマイナスの要素に関しては、個人の好みの影響を受けそうです。なので、期待される機会費用もまた、個人によって異なるものです。

この効用から機会費用を差し引いたものを、余剰といいます。選択前であるので正確には「期待余剰」と言えそうです。
この選択をすることで、差し引きどれくらい得をするか(あるいは損をするか)の収支のようなものですね。

さて、基本的にいくつかの選択肢を目の前にしたときに、人はそれぞれの選択肢の効用と機会費用を参照しながら、最終的な選択を行います。
この時に、選ばれる選択肢には全て効用と機会費用が存在し、その差分の余剰が最大となるものが、最終的に選ばれるという理屈です。

中華とうどんとハンバーガーという選択肢があった時に、ある人がうどんを選んだという背景には、シンプルにうどんの効用が高くて、機会費用が低いという見方もできます。
ただ、実際にうどんはそんなに好きじゃないけれども、10分で食事を摂りたいサラリーマンが、30分かかる中華や20分かかるハンバーガーの機会費用を高く評価し、結果的に余剰が最大であるうどんを選択したという事も考えられるわけです。あるいは、中華やハンバーガーの値段が高すぎるから、うどんを選ぶという事も考えられます。
このように、ある選択肢を選ぶという事は、他の選択肢の状況からも大きく影響を受けるのです。

なぜ人は最適でない選択をするのか?

ここまで述べた通り人は何らかの目的を達成するために選択を行います。その選択肢自体が目的に対して、果たして最適な選択であったのか、ということを人はしばしば振り返ります。
時おり、人は「誤った選択をした」という表現を使いますが、そのように強く価値を断定することは難しいです。不確実性がある中、目的に対し何らかの形でアプローチを行うための選択ですので、それは「誤った選択」ではなく、結果として「最適でない選択」というのが良いのかなと思います。

さて、では「なぜ人は最適でない選択をするのか」、あるいは「選択が最適でないと評価してしまうのか」。
この2点について噛み砕いていきたいと思います。

まず最適でない選択をする構造について。
第一に期待している効用あるいは機会費用を過大/過小に評価しているという事が考えられます。
「SNSで見て想像していたほどではない食べ物が出てきた(期待効用の過大評価)」、「「成績が伸びる」と思って入った塾の宿題が膨大だった(期待していた機会費用の過小評価)」、このような事ですね。
「そんなの考えてなかった」という「予期していない要素の出現」というのは、こうした事例の最たる例かもしれません。
「そんなの知らなかった」という「情報の不足」も無視はできないでしょう。他の選択肢の情報を十分に収集しなかった/できなかったために、期待効用を過小に評価してしまい、別の選択肢がベストだと評価してしまう、ということです。

また、人間の心理的傾向(バイアス)もあります。こうした事例は心理学や行動経済学でよく語られています。
まず、基本的に人間は将来のことよりも現在のことに価値を置く現在バイアスがあります。
「(今日じゃなくて)明日から本気を出す」という選択は現在の効用の過大評価と将来の機会費用の過小評価からくるのではないでしょうか?(自戒を込めて)
その他にも、自分と親和性の高い情報を高く評価し、否定するような情報を低くする確証バイアスや、既に頑張ってきた/お金や時間を投じたのだからやめずに続けようとするサンクコストバイアスなど、様々なバイアスが存在しています。
このあたりは、行動経済学の入門書などでより詳細に知ることができるでしょう。

次に「ひょっとしたらあの時別の選択肢を選んでいた方が良かったのかも…」という「選択が最適でなかったと評価してしまう」構造についても見ていきますが、これは今までの話の応用で整理できます。
あくまで、選択時点は全ての選択肢の効用も機会費用も期待していたものでしたが、選択した選択肢自体はその後に評価が確定されます。ただ、選択されなかった選択肢の評価は選択前のもののままです。あるいは選択後に時間経過により確実性が高まったもの(例えば競馬のような賭け事の結果のようなもの)になります。
前者の場合は、あくまで期待された評価であるので、その確実性が担保されたものではありませんし、後者の場合も時間が不可逆である以上、結果論にすぎません。
振り返ってみると、選択時点の条件(それは個人の嗜好や持っている情報や心理状況等)においては、ベストな選択をしている、という事が往々にして起こっていると推測されます。

人の行動を見て「なんでそんな非合理な選択肢を選んだの?(最適でない選択肢を選んだの?)」と思うこともあるかもしれません。
これにもバイアスや選択の構造で一定の説明ができます。
例えば、いじめの被害者を目の当たりにして、「なんで先生や親に相談しないのか?」「なんでやり返さないのか?」といった意見があったとします。
これに関しては、当事者の目線からすると、そのような選択肢はあったかもしれません。ただ、そうできなかったという事は、その選択に対して期待される効用が低く、機会費用が大きかったとも言えます。機会費用に関しては、そもそも心理状況が追い詰められ相談のハードルが外部から評価するよりもはるかに高いということや、将来的な過激化したやり返しのリスクがありますし、そもそもの得られる将来的に効用に関しても具体的な想像がつきにくかったり(いじめが無くなった後も加害者と同じ教室で過ごすという見込み)、先生や親が何をしてくれるか分からないということがあるでしょう。
そうなると、「何もせず、いじめを受け続ける」という選択肢が、効用こそなくとも、余剰が最大となる選択肢になってしまう、という事は起こりうるわけです。被害者の置かれている、心理的あるいは家族や教室といった社会的状況の制限を受ける中で、最適な判断をした結果であるとも言えます。

なので、自信や他者の判断に対して「それは最適でない」と事後的に評価するのは一見簡単です。
しかし、その選択の時点において、どのような制限や不確実性があったか、そこまで考えることが、すごく重要になってきます。
時間は戻せないので、その選択をし直すことはできませんが、こうした考察は次の選択を行う際の参考になるでしょう。

より適した選択を行う仕組みづくり

ここまで紹介してきたように、選択の構造というものは分かってきました。となると、次に気になるのは、より適した選択を行うのにはどのようにしたらいいかというところです。

基本的に働きかけるのは、先ほど選択の際の課題にも紹介した「情報の不足」というところが第一にあがってくるでしょう。
やはり物事を判断するには情報というのは非常に重要な要素です。
正しく妥当な情報の提供は、効用あるいは機会費用を考慮する際の要素に加わり、また既存の要素の不確実性を小さくすることができます。

例えば、私たちが普段手にする様々な食べ物ですが、パッケージについている食品表示、どんなものが商品に含まれているか、あるいは栄養は記載することが食品表示法によって定められています。
実際に条文にも以下のような記載があります。

(目的)
第一条この法律は、食品に関する表示が食品を摂取する際の安全性の確保及び自主的かつ合理的な食品の選択の機会の確保に関し重要な役割を果たしていることに鑑み、(中略)食品に関する表示について、基準の策定その他の必要な事項を定めることにより、(中略)国民の健康の保護及び増進並びに食品の生産及び流通の円滑化並びに消費者の需要に即した食品の生産の振興に寄与することを目的とする。

食品表示法

これは食品表示の規定を義務付け消費者に示すことで、より消費者にとって適した選択をしてもらうための仕組みとも言えそうです。

また、単に情報は与えられるだけでは十分ではなく、その内容をしっかり理解もできないといけません。
自分自身に対しては、そうした情報を文章で読み解く力やデータで理解する力、いわゆるリテラシーが必要になってきます。
もし、人に対して働きかけるのであれば、分かりやすさも必要になるでしょう(人に対しての説明でこんなに長々と文章にするのは、少々考えものです)。

ただ、情報がたくさんあればあるほど、それはいい事なのかというと、そういうわけではないでしょう。
私たちには処理できる情報に限界があります。こうした研究は行動経済学でも指摘されており、素早く限られた時間で判断するために、人は対象とする要素を絞ったり、経験則により判断するという傾向(ヒューリスティック)が確認されています。
たしかに、実際にお昼ご飯を選ぶ際には、そこまで深く考えませんよね。ただ、終末期医療の選択など重大な決断においてもヒューリスティックは確認されている、という事は看過できないでしょう。

逆に、これらは逆手にとって、より適した選択を行うという事もできます。
例えば、何かの判断に迷っている時、重要となる要素をいくつかあらかじめ定めておいて、その点に基づき判断をするというのも一つの選択肢です。
自分にとって重要な要素はこれなのだから、それに基づいて判断をしたという事実は残りますし、そうすると事後的に「あの時に別の方を選択しておけばよかった」と考えた自分に、「いや、あの時はこれが大事だったんだ!」と説明する材料が残ります。

また、他人に対しては「あれもある、これもある」とたくさんの選択肢や視点を提供するのではなく、価値観を聞くすることで、その好みに合わせたいくつかの選択肢に絞って伝えることも大事になります。

このあたりの現実的な手法に関しては、大竹文雄先生の書籍で実例を交えながら紹介されていますので、参考にされるといいと思います。

広く一般的にも理解、応用しやすい内容になっていると思います(何よりも分かりやすいです)。

エピローグ

さてここまで選択について見てきました。
結構、自明的な部分から展開させ、その応用まで皆さんの今後の「選択」の一助となったのであれば幸いです。

冒頭にも述べましたが、経済学(特にミクロ経済学)において選択は非常に重要な要素ではあるのですが、結構シンプルに扱われることが多いです。
例えば、需要の前提になる購買意欲に関しては、機会費用は金銭的にしか評価されないようなきらいがありますし、また効用も定量的に評価されしまいます。
ゆえに、軽くかじっただけでは、こうした背景までは読み取れず(教科書には軽くは書いてあるのですが…)、経済学は物事の一部しか切り取らない「机上の空論」だ、なんて批判を受けるわけです。
なので、そうした一部分、あるいは一般化された理論を、現実を考えるスタート地点にして、「実際どうなの?」と考える、それが学問的な課題とも言えます。(前回の記事でも紹介していますね)
また、機会があれば「経済学批判」批判や経済学の限界についてもお話ししたいですね。
ただ、その選択をするには、いささか機会費用が大きくなりそうなので、私にとって適した選択肢になるかは、今のところ分かりませんが…。

それでは。

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