[43本目]『死』と向き合っている
2020年、色々なことがありすぎて思考も感情も揺さぶられまくったけど、その結果として『死』という事象について真剣に向き合うことになった。あ、別に死んじゃいたいとかそういうことじゃなくて、『死』とはいったいどういうことなのだろうと深く深く考えるに至ったのである。
もうね、いきなり脱線するんだけど、すでに『死』という漢字がゲシュタルト崩壊してて、あれなんだっけこの字? 何を書いているんだっけ?? ってなっている。たぶん、ある意味障害に近いモノがあるんだろうけど、自分の中では漢字は「文字」と「造形」の間を行ったり来たりしていて、いつまで経っても書き順も分からないしすぐにゲシュタルト崩壊してしまう。「タヒ」にしか見えなくなってる、しかもなんか笑われている気分だ。
ちがう、『死』の話だ。
アレのせいで多くの人が『死』を間近に感じざるを得なかっただろうし、自分もそのうちの1人だった。生き物は生まれ、そして死ぬ。まあ、事実としては当然すぎる話なんだけど、人は生きている間に様々なことを考え、その『死』に対してあれやこれや考える知能があるからやっかいなんだなと気がついた。
死んでしまったらどうなるのか、何のことはないですよそれで終わりなんですよ。それ以上でもそれ以下でもないのに、死に対する膨大な知識やらエピソードやら、宗教なんかがあふれかえっているから漠然とした不安を感じるわけです。死ぬのは嫌かと言われると、確かに今すぐ死んじゃうのはちょっと困るし、いま流行っているアレで死ぬのはとっても嫌なんだけど、未来に死を迎えることについてはまあ当然だよねと考える自分がいるわけです。
いつの頃からか分からないけど、霊の類いの存在がなんなのかハッキリしたタイミングがあって、合わせて宗教の意味も一気に理解するに至りました。それらは全て、自分の中にあるものです、自分が生み出したモノです。寝ているときに見ている夢については不思議に思わない人が多いのに、起きているときに見る夢は怖く感じてしまうのは面白いよなぁ。あ、寝ているときに見る夢が怖い人ももちろんいるんだろうけど。
亡くなってしまった人が残すモノってやっぱり偉大で、生きている人にしっかりと刻み込まれるわけです。で、人ってのは凄くてその刻み込まれたことをいくらでも増幅させることができるんですよね。でもって、それを記録として残すこともできる。昔だったら壁に画を描いてみたり、なんか石を積みまくってみたり、前が四角で後ろが丸いでっかいのを作ってみたり、紙ができてからは比較的容易にしっかりと記録が残ることになったんだよな。
自分の『死』と他人の『死』は基本的には関係ない。でも、人はそれを勝手に結びつけたりして、より事態は複雑になる。生はつながってるけど、『死』はつながってないですよ。そして、地獄も天国もないです、『死』は生の終わりでしかないです、単純に終わりです。
こんなことを書いていたら、大学時代の後輩の訃報が入った。2回生下だけど同い年のサークルの後輩。なんとなく波長が合って、学生時代はいつも一緒に行動していた。卒業以降も何回か会ってたけど、ここ数年は疎遠になっていた。関西在住だし、時期も時期なのでお別れには立ち会えないな、、、。
中途半端になっちゃいましたけど、この話は続きます。
【[63本目]幽霊はあなたの中にいる】に続く
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