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障害を「知る」と言うこと

こんにちは。お助けパウハンズです。

ようやく秋めいてきましたが、夏バテはこれからが本番だそうです。皆さま、お気をつけて。

さて、今回は別のSNSに上がっていた投稿を拝見していて、昔のことを思い出したのでちょっと書きたいなと思ったことです。

ある当事者親子様

その投稿者の方は障害を持つ高校生の保護者様で、そのお子さんが自身も含めて障害について理解できないでいる事に日々モンモンと過ごされていると書かれていました。

かかりつけのドクターにご本人に対して「告知は不要」と言われているから、障害についてくわしく説明せずにここまで来たそうです。

軽度障害のお子さんは他の障害のある方の現れ(大声を出す、授業中部屋から出ていく等)に対して迷惑がったり、車いすを使っている方が本当の障害者だと思っているようだ、でもあなたも「障害者」そう言われて来たのだよ…

保護者様のお子さんを心配する愛情と共に、悩みも垣間見れる内容でした。

実は、このお話とまったく同じ内容を以前関わった利用者さんの保護者様から相談されたことがありました。

その保護者様はお子さんの数が多く、そのうちお二人が脳性麻痺と知的障害の重複障害をお持ちでした。

仮にAさんとBさんとします。

Aさんは下肢麻痺が強く車いすを使って生活して、小学校から特別支援学校に通っていました。

Bさんは重複障害の程度がAさんより軽く、独歩(一人で歩ける)で知的障害があっても日常生活的には自立(トイレや食事等ほとんどの事を自力で出来る)していたので、小中は普通学校の発達級、高校のみ将来の支援に繋ぐため特支学校に通いました。

障害ってなんでしょう?

普通学校の発達級で育ったBさんは、障害について勉強する機会があまり持てず、自分の障害が良くわからないまま思春期に入りました。

元々の障害ゆえに衝動性が強かったところに、更に多感な時期に入り、ますます衝動が押さえられにくくなり、おうちの中で暴れる事が増えました。

その時、口走ったことがあったそうです。

「俺はなんで皆みたいに自由に出来ないの⁉️」

保護者様は知的の問題で他の健常児と揉め事を繰り返すことが多かったBさんを一人でバスに乗って出掛けさせたり、買い物に行かせることが出来なかったとお話しされていました。

健常児ならば小学校高学年には一人でバスに乗る事もあるでしょうし、買い物にも行って当たり前でしょう。

ですがBさんは中学に上がっても、それらを一人で体験することはなかったそうです。
ご本人はそれを不服に思い、他にもたくさんの不満を溜め込んで、何かしらのキーワードで怒りが爆発、衝動が押さえられず暴れると言う行動に出てしまった。

保護者様はBさんの小さい時から「あなたにはこういう障害があって、こう言うことが出来ないこともあるのだよ」と、話して聞かせて来たと話していらっしゃいましたが、Bさんは「俺は障害者じゃない❗️」と受け入れてこなかったそうです。

Bさんにとっての「障害者」はAさんだったからです。

Aさんはこちらの言葉の理解度はある程度高いのですが反ってくる言葉は多くなく、食事はある程度自立されてましたが、トイレは全介助です。
そして、下肢麻痺のため自力では立てず、もちろん歩けません。常時車いすを使っています。

この目に見える「車いす」が、Bさんにとって障害者認定のポイントだったのです。

車いすを使っていない俺は「障害者」ではない‼️

これが目に見える形の障害のないBさんの主張でした。

障害の「告知」と「認知」の違い

障害者の多くは現在では、先天性の場合は小さい時から保護者様以外に、主治医がいて、行政が関わって…というかたちで成長されます。

まずは主治医から「障害告知」を受ける事になります。

そして、障害児の療育が可能な保育園や特別支援学校に入る学齢期になると様々な形で「障害認知」の勉強する機会がもうけられます。

さて、「告知」と「認知」の違いは何かと思われますか?

告知→告げられ、知ること(他動的)
認知→認めて、知ること(自動的)

ドクターから「この子は○○という障害をお持ちです」と告げられて、保護者様は「○○なんだ⁉️」と初めて知ることになります。
もちろんご本人も「あなたは○○なんですよ」と告げられて、ご自分で「○○なんだ」と知るわけです。

つまり、外から言われて「へー⁉️」という状態でも良いわけで、「わからないけど、まあいいや」もありということです。

他方、「認知」はご本人が自分の気持ちの中で「私は○○なんだ」と認めるところまでいって、初めて自分の障害を知ることが出来るわけです。

ご自身の障害を認めて初めて、社会生活を送る力を身につけられると私は感じています。

目に見える形で障害をお持ちの方は、他者から奇異の目で見られることに不安と不満をお持ちですが、しかしながら「障害」を声高に口にしなくても、常識のある人達からは親切に接して頂けることも多いだろうし、わざわざその「障害」をネタにいじられる事は見えない形の障害を持つ方よりは少ないのだろうと、今まで見てきた中ではそう感じました。

そして、目に見える形で障害を持つ方の大半は、保護者様もご本人様も「障害認知」がある程度出来ていると感じました。

自分で自分の障害を受け入れなければ、適切なサービスを受ける機会を自分で潰してしまい、結果的に快適な日常を送るために不利益を被る事になりかねません。

それはとっても損なこと。
ご自身が持っている「権利」です❗️しっかり行使していただきたい。

が、目に見える形でない障害、特に軽度の知的障害のある方などはご家族そのものが「障害認知」が進まず、結果的に適切な行政サービスを受けられない事態もあるようです。

ご本人が自身の障害を理解できてない状態では、サービスを受けるのに不可欠な手続きそのものを受けることがないからでしょう。

何より育ってきた環境の中で「障害認知」をする機会が奪われてきたのだと思います。

普通学校では、おそらくほとんど「障害」について知る時間はないと思われます。

実際、私が発達支援員として講師で勤めた普通中学では、健常児のクラスで障害について話をしたことが一度もありませんでした。

同じクラスに発達障害の生徒がいるにもかかわらずです。

私にその生徒について質問してきた生徒がいました。

「彼らはなぜ私たちの授業を邪魔したり、突然寝てしまったりするんですか?」

「彼らは集中することが長く出来ません。
脳の働き方が皆とは少し違うからです。
皆と同じことをし続ける事は、彼らの脳にはとても負担となります。
そのため、脳そのものが自分がオーバーヒート寸前までいって辛くなると、ストレスを吐き出そうとして大きな声が出てしまったり、勝手に休んでしまうんです。」

脳内物質の働きやら細かいことはさておいて、私はこういう風に説明をしていました。

しばらくして、授業中に発達障害の生徒がぱったり寝てしまったら、私の説明を聞いていた生徒たちが
「あ、また寝た。でも、この授業、私たちでもしんどいもんね。寝ちゃいそう。」と呟いたのです。

これっぽっちのことで、この生徒たちが障害を持つ方の生きづらさを理解できたとは思いませんが、彼らは疑問に対して私が「告げる」ことにより障害をひとつ「知る」機会を持てたのだと思います。

自分を認めて、知ること

「告知」は他者の力だけでできますが、「認知」は当事者が努力しなければすすまないものです。

先のBさんは、将来の自立を目指して、支援に繋ぐため高校は特支学校に進みました。

そこで、ご自分と同様の目に見えない形の障害を持つ同級生がたくさんいて、ようやく自分を理解する機会をもて「障害認知」がすすみ始めました。

だんだんと、回りの支援を受け入れる事を嫌がらずになっていきました。

衝動性については各種機関とつながり、セルフコントロールを勉強しています。

今ではお一人でバスに乗り、事業所に通う毎日です。

他者の力だけでも出来る「告知」だけでは出来なかったことが、自分を「認知」することで日常生活が豊かになっていってます。

これは障害者だけに言えることではない。

私も、これからも、自分の能力を認める努力を忘れず、いろいろ知る機会を逃さないようにしていきたい、カタツムリ並みの歩みでも止めずに進もうと思っています。

お読みくださり、ありがとうございました。

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