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fuga(フーガ)

 首都圏近郊のニュータウンにその小さな大学はあった。大学の脇には東京へと続く線路と国道がそれぞれ一本だけ走っている。
 十二月のある夕暮れ。五十歳になる大学教授の私は大学の図書館から一冊の本を借りた。それは私が生まれた年、つまり五十年前に書かれた本で、ポルトガルの若者がヒッチハイクをしながら国中を旅する、という内容だった。本のタイトルは、フーガと言った。それは、ポルトガル語で『逃避』を意味する。
 この本を読むのは初めてではなかった。若い頃に何度か読んだことがある。世界中の若者はこの本に感化され旅に出たものだが、私は何処にも行かなかった。何処かに行く必要が無いと思っていたのか、単に勇気が無かったのかは分からないが、とにかく旅には出なかった。当時の私には愛した女がいた。愛し合うのに飽きるとこの本を読み、この本に飽きると愛し合った。擦り切れるまで愛し合った。いい女だった。そのうち、コスタリカに行くと言って姿を消した。鳥類学者になりケツァールと言う世界一美しい鳥を探しに行くといった。私は鳥などに興味はなかった。私がそう言うと、彼女は笑いながら、そう言うと思った、と言った。それ以来、彼女とは会っていない。今になってこの本を手に取ったのは、旅に出なかった理由を探すためなのだろう、と私は自己分析した。だが、何故いまそれを探そうと思い立ったのか、までは分からなかった。私は今現在も逃避はしている。もっぱらアルコールで、だ。最近は歯止めが効かなくなってきた。授業中だろうと、酒を飲んでいる。不真面目な文学部学生の目を盗むぐらいわけはない、と思っていたのは最初だけだ。誰も、私の事など見てはいないのだ。

 大学を出る頃には、星が見え始めた藍色の空に雪が少しちらついていた。駅までは一本道で、道の脇には錆びたフェンスに囲まれた空き地があり、雑草が茂っていた。直線的な鉄骨とガラスで構成された駅舎は最近建てられたもので、殺風景なニュータウンの中で一際目立っていた。まるで不時着した宇宙船だ。私はハーパーを原液で飲みながら歩いていた。足元がふらつくと、ここが何処だか分からなくなる。一人で宇宙を旅したガガーリンは勇気があったのだと、どうでもよい考えが浮かぶ。
 駅構内は広くて人気が無かった。改札口の左右にそれぞれ二つずつ店があった。左側にはファーストフード店が一つ、コンビニエンスストアが一つ。右側には喫茶店が一つ。コンビニエンスストアが一つ。各店の中には表情の乏しい店員以外は誰も見えなかった。次の電車までは一時間も待たなければならない事を知ると、私は今、世界の端っこにある田舎のニュータウンにいるのだと思い起こさせられる。私はファーストフード店に入った。客は誰もいないと思ったが、一人の女性がそこにいた。まだ若く、二十歳ぐらいに見えた。彼女は疲れ切った様子で、カウンター席に突っ伏していた。私が隣席に着くと女性が顔を上げた。私は彼女と目を合わせた。目は濁りきり生気を感じさせなかった。恰好から察するに就職活動中なのだろう。
「学生か?」
 私が声をかけると、彼女の目に生命が宿った。顔を上げゆっくりと頷いた。古い映画で観たどこかの神殿で待っている怪物を思い出した。百年前から待たれていたような気がした。私は冷や汗を流した。急に素面に戻った。私は気安く人に話しかけて良いような人間かと、妙に卑屈になる。
「就職活動か?」
 彼女が苦笑を浮かべる。自分の娘も今はきっとこれぐらいの年齢だろうと私は思った。だから、彼女の疲弊した姿を見て自然と心が痛んだ。それは人間ならば当然だろう。その考えは私の心を浮き立たせた。妙な力が沸いた。私にはまだ人の心があると、私の心が教えてくれた。それはどうでも良い事だが、大切な事なのだぞ、と彼女に言いたかった。
「大変だろうがね、世の中そんなもんさ」
「心配してくれるって事ですか?」
 彼女は唸る。女性を動物に例えるのはあまり好きではないが、彼女は野良猫そっくりだった。
「まあ、そういう事かな」
 私以外の人間と何度も同じようなやり取りを繰り返したのだろう。彼女は鋭い目つきで私を睨む。私は途中から、もはや人間と話している気分にはならなかった。
「本当ですか?」
「本当だよ」
 沈黙が訪れた。私は窓の外を見た。彼女も窓の外を見た。雪が本格的に降り始めていた。束の間の高揚感は消え去った。気まずい空気を振り払いたかった。私は鞄の中から図書館で借りた本を取り出した。彼女は少しためらった後、本を受け取った。
「読書は良い。気分転換にね」
 酒の次に、と私は心の中で呟く。
「そうですか?」
「それは旅に出たくなる本だ」
「もう読んだんですか?」
「何度か読んだよ」
 全て本当の事だった。旅に出たくなったし、何度も読んだ。それは本当なのだと、誰に言うでもなく、私は心の中で唱えた。
「それで、あなたは旅に出たんですか?」
 自分が旅に出なかった理由は何だったのだろう、と再び私は考えた。
「あなたは旅に?」
 彼女は面白がっている。どうやら私は、どうみても、旅に出そうな顔ではなかったのだろう。彼女の顔を見ていると、自然と答えが浮かんだ。どこに行けばよいのか分からなかったのだ、と私は思った。この世界には道が多すぎた。道の多さに茫然と立ち尽くし、抜け出そうとあがく事すらしなかったのだ。
「一か月後、来月の十日にここにいるから。その時返してくれ」
 私がそう言うと、彼女はぎこちない笑顔を浮かべながら頷き席を立った。彼女との間に、何かが通じ合った気がした。連絡先を聞かなかったのはそのためだ。彼女が消えてしまうと、店内には私と店員だけが残された。他人同士だ。彼女とだってそうじゃないのか、と私は自問した。違う。何かが違うのだ。と私は自分に答えた。彼女との間には何かがあった。何かって何だろう。それは五十歳の私があと五十年考えても分からないものだろうと考えると、無性に酒が飲みたくなった。何かあると飲みたくなる。それは悪い事ではない。私はもう五十年も生きたのだ。

 一か月後、同じ店に行っても彼女はいなかった。
 本を返す必要が無いと思ったのだろうか。本を借りた事自体を忘れたのだろうか。
 それとも――
 私はもう一つの可能性に思い当たった。
 彼女は本と一緒に旅に出たのかもしれない。

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