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かのバンクシーの有名なフレーズ(確か10年くらい前のものだったと思うけど)。

現代の消費社会で生きる僕たちの習慣的な行動や思考、つまり日々の暮らしそのものは、もしかしたら資本とメディアによってパッケージングされつつあるんじゃないだろうか。

ろくに英語もできないのにバンクシーのこのフレーズをそう解釈した僕は、広告メディアに携わる身としてなんだかすごく複雑な気持ちになった。だって別に誰かの暮らしをパッケージング(享受する側はもちろん提供する側まで含めて、最大公約数にとって合理的で汎用的なもの、だからすなわちいつでも恣意的に取り替えられるのものに)したくて広告をつくっていたわけじゃなかったから。けれど確かに、自社の商品やサービスで(究極的には)誰かの暮らしをパッケージングしたい資本もあって、その片棒を盲目的かつ無自覚かつ無責任に担いでいる面もあったかもしれないなとも思って、そして、そもそも資本の片棒を担ぐ役割が広告の出自であり意義なのだとしたら、だったら、どうせ担ぐんだったら、自分自身に嘘なく担いでやろうと思った。

たとえば、どう考えても身体に悪影響しかもたらさないと考えて、自分はもちろん自分の家族にも絶対にカップ麺を食べさせない人が、カップ麺の広告キャンペーンをつくっているとしたら。そういうのは絶対にやめようと思った。カップ麺でも炭酸飲料でも生命保険でも自動車でも洋服でもエンタテインメントでもパチンコでもなんでもいいんだけど、それがなによりもまず僕自身にとって愛情を抱けたり共感したり実際に暮らしに取り入れたくなる企業や商品やサービスであるかどうか。そこから考えて広告づくりをはじめるようになった。なんだかすっごく幼稚で申し訳ないくらい独善的な話かもしれないけど。

自分自身にとってアリかナシか。うん、この企業は素敵だ。この商品はあったらいいな。このサービスの片棒を担いでみたい。嘘やごまかしや忖度なくそう思うことからはじめる、そう思わないときははじめない。なんでもできるけど、なんでもやらない。屈託なくシンプルに言えばそういうことで、広告のプロとして、不特定多数の誰かを相手にする仕事のプロとして、そういう(ちっぽけな自分だけのちっぽけな)矜持みたいなものは忘れずに持っていたい。これからも。

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