砂の惑星 考察③「君」篇

2017年7月21日に投稿されたハチの『砂の惑星 feat.初音ミク』に関する考察③

「君」がいる場所

「僕」が「砂の惑星」で呼びかける「君」。
今回は「君」を取り巻く環境の話をする。

その話と合わせて、『砂の惑星』には
「初音ミク」を含むボーカロイド文化について、ニコニコ動画という枠組みを超えて、通念的に表現しようとする試みが隠されていることも示していきたい。

①「雷鳴」が響く「砂の惑星」

「君」の生命が宿る「砂の惑星」では
「雷鳴」が飛び交い、「サンダーストーム」が空を切る。

何もない砂場飛び交う雷鳴
しょうもない音で掠れた生命
イェイ空を切るサンダーストーム
鳴動響かせてはバイバイバイ

「雷鳴」や「サンダーストーム」は何を指しているのだろうか。
視覚的な稲妻(光)ではなく、雷の音という聴覚的要素に注目があることを踏まえつつ、雷の原理を見直してみる。

雷とは
雷は、大気中で大量の正負の電荷分離が起こり、放電する現象です。放電する際に発生する音が雷鳴で、光が電光です。雲と地上の間で発生する放電を対地放電(落雷)といい、雲の中や雲と雲の間などで発生する放電を雲放電といいます。(気象庁

電気や音といったワードから連想されるもの…

……DTM、つまりデスクトップミュージック?

用語はそれに必ずしも限らないが
いわゆるボーカロイド音楽制作における技術環境を指しているのではなかろうか。

もちろん、「雷鳴」をそういった具体的な技術ではなく、一時のブームや勢いを示したメタファーととることもできる。

「砂の惑星」は、音が鳴らされる場所であり、
誰かが曲を置いては、その場所を去っていく。

これが「君」が生きる環境である。

②人間っていいな

『砂の惑星』には、まんが日本昔ばなしのエンディングテーマ『にんげんっていいな』を思い起こさせるフレーズがある。

イェイ今日の日はサンゴーズダウン
つまり元どおりまでバイバイバイ

「サンゴーズダウン」、つまり日が暮れるので解散する。
この部分は、『にんげんっていいな』の中では、「夕やけこやけで またあした またあした」にあたる。

さらに後半に出てくるフレーズはより類似性が高い。

でんぐり返りそんじゃバイバイ
あとは誰かが勝手にどうぞ

これは、いわずもがな下記の部分に対応する。

ぼくもかえろ おうちへかえろ
でんでん でんぐりかえって
バイ バイ バイ

『初音ミクの消失』といった曲に象徴されてきた、人間とボーカロイドの差異。
この曲では、ニコニコ動画に馴染みがない人でも、知る人が多いであろう『にんげんっていいな』をわかりやすく想起させる。

「僕」は「君」の気持ちを代弁しないし、「君」自身の言葉はない。
それでも、口に出されることのない「にんげんっていいな」という思いが見え隠れする。

③「レーザービーム」

ここからは「僕ら」の中に「君」がいるとして、「僕ら」の話をする。

二番のサビでは、一番のサビの「サンダーストーム」とは違うものが空に現れる。

イェイ宙を舞うレイザービーム
遠方指し示せばバイバイバイ
天空の城まで僕らを導いてくれ

「レイザービーム」という新しいものが登場し、遠くを示す。

(Perfumeの曲に『レーザービーム』があるのは気になるところ)

「どこでもいいから遠くに行きたい」という思いのある米津玄師にとって、この新たな存在であるレーザービームが指す先に、望むものはなんであろうか。(引用太字筆者)

──「LOSER」でのダンスもそうだし、中田ヤスタカさんとのコラボレーションもそうだし、今年は自分の領域で作品を完成させるだけでなく、今までにやっていないことにどんどん挑戦していますよね。そういう意識は明確にあったということ?

ありました。もう、どんどん開いていきたいと思ってますね。とにかく、どこでもいいから遠くに行きたいという感覚が昔からずっと強くあって。自分がどういう素質の人間であって、何が得意で何が苦手なのかとか、そういうのってけっこう小学生くらいで決まっちゃうものじゃないですか。自分の中にもそういうのがちゃんとあって。「自分はこういう人間なんだな」っていうのはよくわかってるつもりではいるんですけど、そういうものから一歩でも遠くに行きたい。
米津玄師|自己否定から生まれた新たな挑戦

④「僕ら」を導くものはー

歌詞に出てくる「天空の城」は、『天空の城ラピュタ』であろう。

米津玄師はジブリが好きであるという。
下記は、インタビューで「自分ができるかぎりの普遍的な言葉と音を使って作品を作ってみたい」という思いでアルバムを作った、という話の続きである。(太字筆者)

ーーその普遍的な作品を作るために、米津さんは言葉や音を練り上げていくという作業をされたと思います。まずサウンドにおける新しい普遍性とはどのようなものでしょうか。

米津:「ニコニコ動画」で自分の曲を紹介していたような時期は、外部に対する視点というのは全くありませんでした。つまり「ニコニコ動画」という“巨大な島”の中でどう表現するか、という視点しかなかったんです。ですから普遍性といっても、その中での限られた普遍性だったんだと思います。そのあと、そんなことをしていてもしょうがないというような気持ちになりましたが、そのきっかけとなったのは自分は「ジブリ映画」がすごく好きだということなんですね。

「ジブリ映画」というのはとても普遍的な作品で、おじいちゃんやおばあちゃんだけでなく、幼稚園児にも内容が理解しやすいですが、それはものすごいことだと思ったんです。これは映画に関しての話ですが、作品を作って表現するということにおいては「ジブリ映画」以上に強度を持ったものはないのではないかと。子どもにでも分かるような娯楽作品ですが、文脈もあって、その上でいろいろなことを考慮した作品作りはすばらしいですよね。それに影響を受けて自分もそのような作品を作ってみたい、と思ったのが最初です。そう考えたときに、それまで自分がボカロなどで作ってきた作品は誰もが楽しめるようなものではない、もっと他にやり方があるんじゃないか、ということを感じていたのは事実です。
3rdアルバム『Bremen』インタビュー

普遍的な性質があるというジブリ作品から、米津玄師は「希望」を受け取ってきた(米津玄師、心論。)。

「天空の城まで僕らを導いてくれ」という歌詞には、
限られたコミュニティにしかわからない文化であることの自覚と
普遍的に通ずるということに対する憧れがこめられているのかもしれない。
そして、それが「僕ら」の希望である。

また、『砂の惑星』自体が、上記の『にんげんっていいな』やジブリといった、より多くの人に共有される知を取り入れることで
普遍性とまではいかないが、ニコニコ動画の外部へ意識が向けられていることがわかる。

しかし、それ以上に内部への愛情が感じられるというのは、次回以降のお話。

AY

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