おばけはこわいという話。

私は、自閉症スペクトラム、特に俗にいうアスペルガーの傾向があると思われる。
ただ、それを深く理解してもらうために記事を書いているわけではない。前回の「もしかしてASDですか?」という記事でも、左利きのような少数派だけど、ちょっと違うという認識程度でよくて、身構えないでほしい気持ちを書いた。

でも、時にはちゃんと説明しないといけないと感じたので、ちょっと私のそういう話。

その前に…

◆境界線の話

自閉症スペクトラムは、空気が読めないとか、コミュニケーションに問題があるとか、ほかにもあらゆる特徴があるけど、表面に出てくるそれらの特徴の原因は、「自他区分」(「自他境界」)にあると思う。
まだまだ自閉症スペクトラムだったり、アスペルガーだったり、解明されていないことが多くて、断定的な話はできないけど、私自身も実感的に納得できるのはこれだと思ってる。

自閉症スペクトラム児者における自他区分の問題について考えてみる(1)
自閉症スペクトラム児者における自他区分の問題について考えてみる(2)

↑自他区分の問題は、上記に詳しい。わかりやすく図説されているのでおすすめ。

要するに、自閉症スペクトラムの人は、「人は人、自分は自分」という感覚が薄い。その境界線が自分の中では明確ではないから、人との関係性がうまく計れず、時にすごく冷たく見えたり、逆に近づきすぎたりする。

この境界線は、人と自分の間に限らず、生活の中のあらゆる情報に対しても当てはまる。目や耳に入ってくる情報に対して、重要かどうかで取捨選択ができない。街中の雑音を雑音として無視できない。

私の場合は、特に音に過敏なのでスピーカーにして音楽が流せないし、あとは出しっぱなしの水がこわい。音が自分の聞くテリトリーの外にまではみ出したり、水が使われる用途もなく無駄に流れていくのが耐えられない。
自分の中で無視していいものとして切り捨てていいものが判断できないため、必要以上に与えられるとパニックになってしまう。イヤホンで外に漏らさずに全部の音の要素を自分の耳で拾う、シャワーは使うときだけ出す。自分の知覚できる範囲内で完結しないと落ち着かない。

境界線がうまく引けないことによって、どういう弊害が生じるかは人によって違う。
生きるということは、基本的に”情報過多”なのだ。だから、決まったルールにこだわりたいし、ルーティン作業の方が苦じゃない。そうじゃないと、とかくこの世は刺激が多すぎて、日々疲弊してしまう。

例えるなら、虹を見ても色を分節できなくて困惑する感じ。均等に等分せよと指示されれば、すごく正確に五つや七つに色を切り分ける能力はある。

ちなみに私は、文章の要約は苦手だが、文章の校正作業は好き。

◆共感性羞恥

少し前に、『マツコ&有吉の怒りの新党』に取り上げられた「共感性羞恥」が話題になった。"empathic embarrassment"の訳語らしい。

「共感性羞恥」というのは、ドラマとかで恥をかきそうなシーンが見られない。他人の恥をかくシーンが見られないのだ。私も見られない。「うわああああああ」って居ても立っても居られなくなる。
恥をかくシーンだけではなく、つらい流れになることがあからさまに予想できるともうそこで、ドラマもアニメも映画も見るのをやめてしまう。

共感性が無いといわれることもある自閉症スペクトラムだが、この共感性羞恥が強い人もいる。

Empathic Embarrassment Accuracy in Autism Spectrum Disorder(自閉症スペクトラムの人の共感性羞恥の傾向)

↑上記の論文では、自閉症スペクトラムの人は、共感性羞恥が強い傾向がみられるという結論をだしている。

これも自他の境界線があいまいなことが関係しているような気がする。

「他人のことなのだから気にすることはないのに」という意見を言われても、その言いたいことはわかるが、人が恥をかく際、別に「自分のことのように恥ずかしい」わけではなく、自分が当事者の方がまだいいのだ。これが不思議なもので。
そもそも「自分は自分、他人は他人」という感覚で生きていないので、言われたところで、そう簡単に切り替えはできないのだが。

自分と他人をごちゃ混ぜにしてるのではなく、人のことだというのは認識としてちゃんとある。ただ自分と関わる人は自分と連続体のように感情が反応してしまう。

私は四人兄弟だが、子どもの頃、あまりしかられない方だったらしい。でも上の子が怒られても、下の子が怒られても、一緒に私も凹むので、結果として四人分叱られた気持ちになり、めちゃめちゃ怒られて育ったような感覚がある。

身近な人が不機嫌であったり、疲れたりしているのを見ると、八つ当たりされたわけでもないのに、私まで気持ちが沈む。これは、誰でもそうじゃないのかな?くらいに当たり前の感覚なのだが。

そういう感じなので、まわりの人が幸せでいてくれないと、自分も幸せになれない。

◆おばけはこわい

今まで話したことは、結局読んでる人もピンときていないんじゃないかという気がする。ので、境界線の話が関係ない例えをする。

つまるところ、私には、おばけが見えるのだ。みんなには感じられない刺激を感じてしまうのだ。
それは恐怖の存在というか、ただ得体が知れない存在程度のニュアンスで、そもそもこわいおばけじゃないかもしれない。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」的な。でも自分としては避けたい気持ちがある。

みんなが楽しんでいる場で、誰にもおばけなんて見えてないのに、そこで私が「おばけがいる!こわい」なんて騒ぐと、「何こいつ、興ざめなんだけど。気色悪いな」としかならない(辛辣)
私は人がいじられている場面を見るのが苦手だけど、そう感じてるは自分だけで、それを口に出すと場が盛り下がってしまう。
「おばけいる!」と言っても「え、いないよ、何言ってんの?」としかならない。みんなには見えてないから。

だから、私はいつも嫌だな、おばけこわいなって思いながらも、おとなしくする。

でも、最初は楽しかったけど、いつの間にか、おばけに縛り付けられて、身動きがとれにくくなってるいじられキャラとかいるじゃないですか。

いじりといじめの境界線があいまいだと感じてるからこそ、私はいやなのかもしれない。

普通の人はもちろん節度があるので、私が見てるのはたいてい悪さしないおばけなんだけどね。でも、見えると、やっぱりおばけはこわい。

おばけをこわがるそんな面倒な自分さえいなければ、世界が丸くおさまるなら、おばけが無害な間だけ私は身を引こう。

AY

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