有袋類のうさぎ

 ある朝、眼を覚ますと、ドアのそばに母が立っていた。私が起きるまで、ずっとそこで待っていたみたいだった。朝日のせいで部屋のなかが霞んでいて、でも母の顔だけは影がかかってよく見えなかったのを覚えている。

「あなたが欲しいって言っていたぬいぐるみ、つくったから」

 母はゆっくりと近づいてきて、白いなにかを差しだした。私は無意識のうちに手をのばして、それを受けとる。平べったいうさぎのぬいぐるみだ。お腹のポケットから、赤ちゃんうさぎが顔をのぞかせている。「ありがとう」と、むにゃむにゃしながら、私はふたたび眠りに落ちてしまった。

 そのことを小学五年生のとき、不意に思い出した。ちょうど授業でつくっていた自分史のエピソードになるのではと考えて、母に尋ねた。

「あのさ、ぬいぐるみ作ってもらったことあるじゃん、二歳くらいのとき」

「ぬいぐるみ?」と、母は首をかしげて、

「スモックならつくったけど。あと手提げも。でもぬいぐるみは作った覚えないよ」

 私はまさかと思い、車庫の二階へ行って探した。遊ばなくなった玩具はすべてここにあった。絵本とか、水族館へ行ったときのキーホルダーとか、ぽぽちゃん人形とか、積み木とか、いろいろ出てくるのに、そのぬいぐるみだけはなかった。では、アルバムはどうだ。隅に映っていたりはしないかと、探してみたけれど、これもない。遊んだ記憶はあるのに。
 あのぬいぐるみは確かに私のものだった。ポケットのなかの赤ちゃんうさぎを取り出したり、しまったりしたことも覚えている。なのに、どうして、跡形もなくなってしまったのか。もしかしてこれは、私の知らない誰かの記憶だったのだろうか。

 ということを、同じ専門学校に通っていた友人に話すと「わたしの友達の話に似てる」と言った。その子もあるとき母親からぬいぐるみを渡され、しばらく遊んでいたが、気がつけば跡形もなく消えていたらしい。「一種のイマジナリーフレンドなんじゃないかな」と友人は続けて言った。良かった。私だけじゃなかったんだ。

 それにしても、母親の手から渡される友達って、心情としては複雑だ。親子参加の学校行事で「あなた、友達のところに行かなくていいの」と、たいして仲良くもないクラスメイトの輪のなかめがけて、ぽんと背中を押されるような感覚に似ている。でも、私があのときみた母も、たぶん本物じゃなくて、母の姿をかりた何者かなんだ。例えば、使者、とか。

 ぬいぐるみにはたぶん、ぬいぐるみの国があって、有袋類のうさぎのほかに、三本足のからすとか潔癖症のライオンとか、ちょっと変わったやつらが棲んでいるところもあるんだろう。彼らはあるとき使者に連れられて、人間の子どもたちのもとへやってくる。そして、あるていどその子との友情ができあがったときにふらりと去り、また、次のところへ向かって……おなじことの繰り返し。
 だったら、あの有袋類のうさぎも別のだれかの友だちとして、いまもいるんだろうか。優しいサイクルのなかで生きているんだろうか。いいなあ。その輪に私をいれてくれないかな。

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