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いつでも白紙にもどれることを願って

皆さんは「好事家ジュネの館」というYoutuberをご存知だろうか?
「暗く・悪しく・美しく」をモットーに、アングラ文化やサブカルチャーに属するコンテンツを紹介・解説しているチャンネルである。

私は彼女のおかげで、宮西計三という稀有な漫画家を知った。中井英夫の短編や寺山修司の戯曲に耽溺した。青山正明の『危ない薬』が今さっき届いて、今月のお金が厳しくなければ村崎百郎の『鬼畜のススメ』も買おうかなと思っている。

さて、彼女はYoutube活動のほか、月に一度ブログを更新している。それが『ケー・ドルセー41番地』だ。

更新された記事は、読者に宛てた一通の書簡「鈍色の手紙」と称されている。内容は彼女自身の冴え渡ったまなざしと多識な引用に満ちており、整った文章でありながらどれもが切に綴られている。その審美的な佇まいに心惹かれる者も多いだろう。

私はおおむね彼女の主張に肯定的だ。これは私のために書かれた言葉なのではと錯覚する瞬間があるほどに。

『第16書簡「母殺しのドグマ」』を読んだときは特に顕著だった。
(ここからは具体的な内容に触れるため、できる限り上記の記事をお目通し願いたい。)


ユング心理学的に「母殺し」とは母離れのことであり、子どもの精神を自立に導くために必要な儀式である。(このことは調べればいくらでもでてくるし、ジュネ氏が記事のなかで丁寧に説明しているため、あまり深くは語らないことにする。)
とはいえ、娘と母の関係は、他の身内の関係と比べ、いささか拗れやすいように感じる。ぱっと見、ふたりの関係が良好そうにみえても、娘のほうはどこか釈然としない感情に苛まれているのではないか。そう勘ぐってしまいたくなる。私が女だからだろうか。もし男だったら母親との関係は違ったものになっていただろうか。

娘であるというただそれだけのことなのに、なぜ母親と向きあうのがこんなにも苦しいのだろう。母親と息子の間では生まれ得ないような確執が、なぜ娘との間では起こってしまうのだろうか。

 母親の娘への接触は、娘という鏡に向かって、母親が化粧をめかし込んでいるような光景に近い。母親の視線は娘を通過する。母親が見ているのは鏡そのものではなく、鏡に映っている自分だからだ。娘はこの母親が鏡に対して行っている自己投影に自己が否定されるような虚しさを覚え、一方で凄まじい嫌悪感を催す。何故なら透明な自分は、物も言えぬまま、延々と母親という他人の化粧の様子を見せ付けられ、「こう着飾るのよ」とでも言うような無言の威圧に晒され続けるからである。
(中略)
 そうして「女」は、娘と言う鏡台の前で「母親」に変身した。娘は期待する。「女」としての自意識を化粧の下におおい隠したこの「母親」が、ようやく私を鏡ではなく意思のある他者として扱うのではないかと。しかし母親は満足したかのように、鏡台の前から立ち去ってさっさと出かけてしまう。化粧の見せ甲斐があるのは、家の外にいる男に他ならないのだから────そうして息子は、いつも化粧の下にある「女」ではなく、化粧したことで顕現した「母親」を目にすることになる

『第16書簡「母殺しのドグマ」』好事家ジュネ

達見だ。長年、言い得ることのできなかったことがらをきっぱりと示してくれたように感じる。娘と母親の関係を「化粧をめかし込んでいる(ような)光景」に落としこむという発想が良い。情景はもちろん、それに伴う感情も想像しやすく、なにより母親の非情さが端的にあらわされていると思う。

ジュネ氏の言葉によると、娘は精神的な自立を果たしたあとも、自分を脅かしてくる母親を振り払うために、殺しの儀式を続けなければならない、らしい。もはや大がかりな仕事といえる。殺しには労力が要るし、うまくとどめを刺すことができずに、精神的な病を患ってしまうこともあるだろう。
この状況から逃れるためには、どうしたら良いのか。いや、完全に逃れるなんて無理なことなのかもしれないが、方法はふたつあると思っている。

ひとつは月並みだが、母の元から離れることだ。物理的な距離がはなれれば、心理的な距離もはなれる。実にシンプル。
ひとりでいるときも母の亡霊はやってくるかもしれないが、生活をともにしていたときほどの強烈さはないだろう。

そしてもうひとつは、自らが母になることだ。ジェームズ・フレイザー著『金枝篇』の王殺しのごとく、殺す者から殺される者への変遷を遂げるのだ。
娘はひとりの母として母に接する。殺し殺されの敵同士ではなく、殺される者同士の連帯を生じさせるために。

宮西計三の著書『リリカ』に収録されている『鶏少年』は、まさしくその連帯が描かれている作品だと思う。
あらすじをざっくりと説明しよう。

食欲旺盛な母親のために、主人公の少年は卵を買い求めて家を出る。だが、店が臨時休業のため手に入らない。そしてそのまま(何故か)少年は行きずりの雄鶏に犯されてしまう。翌朝、産気づいて目覚めた少年は、バスルームで卵を産み、それを母親に振る舞うという話だ。

最初のページは母親の食事シーンで占められ、非常にグロテスクに表現されている。少年はそんな母親に対して、畏れているような哀れんでいるような目を向けていたが、最後、成すことを成したあとの少年は、その母親と、まるで何事かを共有するような特別なまなざしを交わすのだ。
(ほんとうは該当のコマを画像表示すればもっと伝わりやすいのだけど、著作権のこととかが怖くて難しかった。)
ここに、このまなざしに、殺される者同士の連帯を感じたため、ひとつの例として挙げておく。生まれた子ども(卵)は犠牲になってしまうが致し方ない。先ほども述べたとおり、完全に逃れることは叶わないのだから。

個人的に『リリカ』はとてもおすすめで、グロテスクな表現やアダルトな描写が苦手でなければ、ぜひ読んでほしい。私は作中だと『月の園』がいちばん好きだ。

話が逸れた。

とはいえ、いまは家族の形やひとの在り方が多様化している。娘の父殺しも息子の母殺しも充分あり得るだろう。もちろん、心のなかで誰かを殺す必要のない子どもたちだっているはずだ。

 しかし、もはやそうして母を殺し家出をする必要は、今の娘たちには殆どない。核家族化が進んでいった中で、母の神聖を崇め、一方でその強大と理不尽を畏れるような母性信仰は消滅した。現代家庭においての母親は、一族を生み育て支える「家庭の守り人」ではなく、「家庭を運営する家族構成員のひとり」でしかない。故に今の娘たちは、家を支える「仲間同士」であるからこそ、母親とフラットで対等な関係を築いているように思われるのだ。

第16書簡「母殺しのドグマ」 好事家ジュネ

これで問題は解決だろうか。いまの娘たちは、母親と関わるたびに息苦しさを覚えなくても良くなるのだろうか。
そうではないと、ジュネ氏は続けて語る。

 母親はもうひとつ、娘に憎まれうる立派な原因を持っている。それは娘が上述したような母子関係の葛藤コンプレックスの中で、あるいは個人的な経験の中で抱えるようになった自己否定の念が、出生の恨みと呼応する時である。

第16書簡「母殺しのドグマ」 好事家ジュネ

心のなかで誰かを殺す必要がないということは、主体性を獲得しなくてもかまわないという態度である。主体性を欠いてしまうと、社会的に生きづらくなってしまい、究極、自分自身を殺してしまいかねない。だから行き場のなくなってしまった殺意を、自らを産んだ母親に向ける。非常に真っ当だ。真っ当だし、結局は、母親を殺さなければならないという事実が、物悲しくもある。

ここ数年、私の体感に過ぎないが反出生主義者と呼ばれるひとたち、そういった意見に賛同しているひとたちが、増えているような気がする。それは、経済状況とか世界情勢とか、そういうことが原因であったりするし、SNSの普及で自分と誰かの差を簡単に見いだしやすくなったことも起因しているかもしれない。

そしてそのなかに、心のなかで誰かを殺す必要のない娘や息子がいるのだとしたら。

私は、その行き場のなくなってしまった殺意は、母親からはねかえって、自分自身に向いてしまっているのではないかと考える。出生のエゴイズム由来の母殺しは、通常(?)の母殺しとは違い、自分自身の存在を否定しているところが大きい。「私を産んでくれるな」という言葉で母親を拒絶しながら、緩やかに自死を望んでいる。私を殺せと叫んでいる。


ときどき、私はひっそりと思ってしまう。私の身体が、血のつながりや、あらゆるしがらみを持たず、ただそこに存在することを望んでしまう。何世代ものひとたちが生きては死んでをくりかえして私がいるのに、我が儘なんじゃないのって思うけど、思うように生きられなかった時間があるのも事実だし。でも、だからといってすべて悪いほうには振り切れなくて、当然、このつながりに私は生かされていると、嫌になるほど実感するときだってある。やっかいだ。

ひとがほんとうの意味で自由になるということは、いつでも白紙の状態にたちもどれるということだ。

栗原康著『はたらかないで、たらふく食べたい』

私たちは生まれた瞬間から、がんじがらめにされている。
どんな親から生まれ、どんな文化圏で過ごし、その国にはどんな歴史があり、いまがどんな時代なのか。それら全てによって私たちは形作られていて、ときどきそれ相応の振る舞いを求められる。うんざりじゃないか。

母親を殺せ。そして自由を手に入れろ。

私たちはいつでも白紙の状態に戻れることを願って良い。誰からも生まれたことのない、ただそこにいるだけの存在だと、自分をもっと決めつけることだ。

うだうだいろいろ言ってしまったが、最後に、心のなかで誰かを手にかけながら生きているあなた、そのみじめさに嫌気がさしているあなた、そんな自分を救うことをためらっている、やさしいあなたが、好事家ジュネの館をたずね、そして鈍色の手紙を受け取れますよう。ほんとうにおすすめです。

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