蝶々結びとショパン
当時、私は大学を卒業したあと、ちょっとした資格がとりたくて専門学校生をやっていた。実習の兼ね合いで、いろんな場所を転々としていたが、埼玉の学生寮に住んでいたときが一番長かったと思う。単純に期間がだけど、体感的にも長かった。
その寮に大学時代の友達が遊びにくる夢をみた。すごくリアルだった。久しぶりに会えて嬉しかった。内容は覚えていないけど、取り留めのないことをずっと話していた、気がする。きめ細やかな日のひかりが友達の顔にかかっていて、とてもきれいだった。
「私が前に付き合ってた子、いたじゃん」
何かの拍子で、私は思い出して言った。
「うん」
「なんか、南のほうへ行くらしいよ。外国」
「へえ、じゃあ、その子だけだね、蝶々結びできるの」
「どういうこと」
「え、だって、日本人しか出来ないじゃん、蝶々結び」
ここで私は眼を覚ました。そのときは「ああ、そっか」と納得しながら、いつものように実習先へ向かった。ひととおりその日の学習が終わり、帰りの電車を待っているあいだ、ふらふらの頭で考えてみる。待てよ。別に蝶々結びは、日本人だけのものじゃないぞ、と。しかもその友人は、私の恋人だったひとも知らないし、会ったこともない。
こういうことが、たびたびあった。疲れていたり、精神的に参っていたりすると、夢のなかの常識が、現実にまで持ちこまれて混乱した。危ない、危ない。あのとき気がつかなかったら、私は誰かに「蝶々結びができるのって、日本人だけらしいよ」と吹聴して、恥をかいていただろう。
夢のなかで夢と自覚し、そこで現実的にふるまうことができるのを、明晰夢って呼ぶけれど、現実の世界で、夢のなかのときのようにふるまってしまうのは、どう呼ぶんだろう。不明晰現実、ではそのまんま過ぎるか。
恋人だったひとが、お菓子をつくる夢をみた。そのときは彼女の部屋で、ふたりして床にぺたりと座りながら、ケーキを食べていた。たしか夜だった。キャンドルが灯っていたから。
「あれ、これ、なんか入ってる」
「そう、隠し味をいれたんだけど」
私はもぐもぐと口を動かしながら、何の材料かを考えてみたが、全く分からない。とうとう降参して「なに」と聞いた。
「ショパン」
「え」
「ショパンの曲を流したんだけど」
そこで眼を覚まして、そのときも納得した。音楽も隠し味になり得るのだと。さっそく私も真似してみようとして、ふと、もうやってるじゃん、と思った。
もうすでに私は、麺をゆでるときや、カップラーメンを待つときに、音楽で時間をはかっていた。茹で時間が三分のときは、だいたい三分で終わる曲を流しっぱなしにする、という具合に。しかし、それで味が変わった試しがない。カップヌードルはカップヌードルのままだし、ロイ・オービンソンの唄声が、味に深みをあたえるなど、叶わないことなのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?