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退職届(小説)

「どんな嫌がらせをされるかわからない」と語調を強めて、加奈子は目の前のホットコーヒーに口を付けた。駅から5分程歩いたところにあるチェーンの喫茶店は窮屈で、丸い机はコーヒーカップが二つ置かれるだけでいっぱいになった。

「どんなってどんなだよ。」
「それはありとあらゆることよ。社長なんて、法律なんかお構いなしにやりたい放題なんだから」私は話に棹を差さないように口をつぐんで、話を続けさせた。

加奈子は勤めている会社を辞めようとしていた。10人規模の小さな、けれども20年近く続いている老舗のPR会社だった。社長が労働環境整備に後ろ向きで、有給休暇も定期検診もなかった。そのうえ狡猾なところがあり、数ヶ月前に辞めた同僚は陰湿な仕打ちを受けたそうだ。「泣きながら辞めていったんだから」と。

考え込むフリをしながら目の前のコーヒーを手に取る。温かさが喉に溜まり、ゆっくりと腹に落ちていった。どんな嫌がらせがありうるだろうか。彼女の目は瞳孔が大きく開き、熱を発しているようだった。

恐怖政治というのは本当によくできた制度で、ひとつの具体的な暴力が何百・何千もの恐怖をもたらす。想像力によって臣民は勝手に屈服して、抵抗の可能性を奪われる。

「うーん」と長く低い音を発してみる。大げさに悩んでいる素振りをあらわしてみた。手を顎に当てると、朝剃った髭が肉に刺さった。「でも、辞めたいんでしょ」

「結局人は、楽なほうに流れるのよね。」加奈子は少し考え込んでから、仕方ない、とそっと呟いた。そして立ち上がりマフラーを巻き始めたので、私も慌てて荷物をまとめて店をあとにした。



週末の展示会で、加奈子はインディアンの奇声を発しながら壇上に乱入して、消火器をめちゃくちゃに噴射した。その様子はSNSで拡散され、あっという間に忘れられた。加奈子は転職の話がフイになったが気にする様子もなく、我が家に転がり込んできて、いまはスウェットのままトーストを焼いている。会社もなんとか存続しているらしい。



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