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病院の夜

病院の夜

夜の病院のロビー程、気味の悪いところは無い。
ましてや、昼間の賑やかさのことを考えると、知る人ぞ知ると言わんばかりに、その本性むき出しにする。
 しかし、凡人にはそのことを
微塵にも思わすことなく、無機質な受け入れ態勢の芝居の名人なのかもしれない。
 大いなる闇が、口を開けて待っている。
 私は、事故によって今は車いすのお世話になっている。おぼつかない手で、車いすをこいでいるのは私だけだ。
 土曜日の夜、ナースの声がこだまする。
「消灯の時間が来ましたので、電気を切ってお休みください。」この言は、通常2回繰り返される。この日も、間隔は開いたものの、2度目の声を聞くことができた。
 いつもになくタバコが吸いたくなり車椅子用のエレベーターに乗り、5 Fから1Fへ降りていった。
 エレベーターの中には鏡が取り付けられている。
 その鏡を通して今何階であるかがわかることが出来、車いすでも安心して乗れると言うわけだ。
 しかし、私はこの密室の中での鏡に
限り、映るもの全てを信じるわけにはいかない。
あるはずのない幻の1Fに連れられて行った数多くの人々を知っているからだ。
チン、どうやらロビーに着いたようだ。
 ドアが閉じないうちに車椅子を前へ出さなければいけない。
この時ほど、焦りと緊張の葛藤を覚える事は無い。
夜のロビーに灯りはにい。
ティールームは、対角線上の1番端にあるはずだ。
 手探りで行くしかない。
といっても私の両手は車椅子の移動のため、そうもいかない。
 この暗闇では、残りは五感のみが頼りになる。
しばらくし、一切の障害物に当たることなく移動していることに気づく。
 ロビーの中央を突破しようとしている。
なるほど、時が経つにつれて、闇に目が反応しつつあるようだ。
 よく見ると、お客様用の待合室が全て片付けられている。
土曜日の夜、別に大した事では無い。掃除が行き届いている。

待っていたもの

どういうわけか、ティールームから漏れている灯りがいつもと違う。
 オレンジ色の灯りが、ろうそくの明かりのように、ゆらゆらと消えそうになり、また、輝きを取り戻したり、自家発電なのだろうか。
 最新技術で作られた病院にしては、ここだけレンガ造りで、洞窟のようでもあり、鍾乳洞を思わせる作りであった。中は狭い。
入り切れない車いすを目一杯壁に押し付けブレーキをロックする。と、一筋の白い線が目の前を横切った。
 車いすにばかり気をとられていたため、先客に気づかなかった。
 まさかこの時間帯に人がいたとは。
 見たところかなり病院慣れした老夫が斜め前に座っている。
  髪は、寝癖のまま着ているかいないのかわからないボロボロのパジャマを着てボタンは所々なくなっている。
 シワだけの顔に垢がこびりついている。もう何年も風呂に入っていないようだ。一筋の白い線がまた目の前を横切る。
どうやらこの老夫の仕業のようだ。
 私も負けじとタバコに火を灯し一息吸い込んだ。
 老夫は、片足を椅子の上にあぐらを含む形をとり、余った手で足の指の垢を取り始めた。
 知らないふりをしていれば良いのだが、今となっては目のやり場に困ってしまった。
 周りには、誰もいないのである。
夜の病院のロビーが、憎たらしく思えてきた。静かな闇につられていきそうな気もした。
「これが昼間なら…」
私はアフリカの砂漠のことを考えていた。
昼間40度を超える猛暑が、夜ともなると零下となる2つの世界の顔を持つ砂漠のことを。
 同じだ、ここも2つの世界があるのかもしれない。
この老夫に何か言葉をかけなければ…世間話の1つでもするのが常識ではなかろうか。
しかし、きっかけがつかめない。
老夫の顔色をうかがおうにもシワだらの顔がうつむいて灯りの影がうまい具合に覆い被さり原型を保っていないからだ。
 この気まずい雰囲気を老夫は感じていないのだろうか。
 ともかく私は、タバコをふかした。タバコのありがたさを感じたのは、この時が初めてではない。

老夫の教え

タバコの灰を捨てながら、私は老夫の様子を伺う落とした。
ふいに老夫はもう片方の足を椅子に乗せて私に挨拶を仕掛けた。
 相槌をうとうと私も頭を下げた。ところが老夫は知らん顔している。
「失礼な人もいるもんだ」
実際、この老夫に気を配ろうとした自分に呆れ果てている直後、あぐらを組んでいる老夫がまた私に挨拶をしてくれた、
 あまり不意打ちに、私は動揺しかけた。
「知るもんか」タバコの煙をあらんばかりに吐き出す私であった。しばらくすると、これが老夫の癖であることに気づいたが、その時は、すでに老夫のペースに振り回されている自分に迷いを覚えざるを得なかった。
 「何か迷っているようですな…」
その声は紛れもなく老夫のものだった。」
「何を考えているんだ、この爺さんは。自分が迷わした張本人のくせに…」私は自分の心を覗かれていると言うことに、何の不思議も感じずに老夫の顔を神妙に伺った。
老夫はタバコを蒸している。
「いっそ、打ち開けてしまおうか?!」初対面であるこの老人に何の疑念も持たなかった。
長年の親友に悩みを打ち明ける。
そういった心境だった。
実に病院の夜のロビーは、摩訶不思議なところだ、
 人の心を変えてしまう力があるのだろうか?
人間の生と死を引き受ける場所、しかも、唯一人間の弱点とも言うべき夜の暗闇。
 この2つの条件を満たしてしまった。レンガ造りのティールーム、老夫は全て知った上での無言の教えだったんだろうか。
 私の迷い(死への悩み)は、私自身が越えなければならない壁なのかもしれない。誰もが一生に1度は出会うであろう待つべきもの(死)を私は、老夫に見た。
 また来よう、その時は老夫と対等の私を「自分」を見ることができるだろうか。
私はエレベーターに乗り上へ上へと上がっていった。鏡に映る幻の1Fを見つめながら……。

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