『人新世の「資本論」』を読みました
読みました。ちょっと前に話題になった本ですね。それをなぜ今読んだかと言えば積読を崩したのが今だったからです。
さておき、どういう本だったかというと、端的に言えば陰謀論の本でした。
陰謀論の外形を一般化すると、「世界を支配する巨大な『悪』があり、世界の問題はすべてその『悪』が私利私欲のために人々を苦しめ搾取している故に起こっている。そしてその『悪』を打ち倒し新たな秩序を築き上げれば世界の問題はすべて解決していく」というようなものです。
『人新世の「資本論」』はそういう話をします。
『人新世の「資本論」』において『悪』は「資本主義」です。「資本主義」が「〈コモン〉の潤沢さ」を独占によって奪ったことが人々を苦しめ気候変動など地球の環境を不可逆に破壊しようとしている。「資本主義」を打ち倒して〈コモン〉を市民の手に取り戻すことが人類が生き残る唯一の方法だと説きます。前述の外形をしっかりとなぞっていますね。
他にも特徴的なのが、巻頭から巻末まで一貫して、卓越した人文学テクニックによる巧みなチェリーピッキングが繰り広げられることです。例を挙げましょう。
このグラフは2017年の国別の二酸化炭素排出量の割合です。気候変動を食い止めようと考えたときに立ちはだかる困難をありありと描き出す絶望のグラフです。日本がいくら頑張っても中国を止められなければ簡単に飲み込まれてしまいます。
この絶望のグラフに対して『人新世の「資本論」』では「日本は二酸化炭素の排出が世界で五番目」、「日本を含めた上位五ヵ国だけで、世界全体の六十%近くの二酸化炭素を排出しているのである」と評しています。「事実」に反することは何一つ言っていません。しかしこのグラフから読み取れる本質的な「価値」を捉えているとは到底思えません。上位1ヵ国の中国だけで世界全体の28%を占め、上位2ヵ国の中国とアメリカで世界全体の42%を占めている中での、上から5番目という事実が重要でしょうか。グラフに描かれていない6番目以降はどうなっているのでしょうか。「日本を含めた上位五ヵ国」で排出している「世界全体の六十%近くの二酸化炭素」のうち日本から排出されているのは1/20程度でしかありません。二酸化炭素の排出において日本の責任が重いと印象付けるための恣意的な閾値設定としか言いようがありません。
もちろん、GDP世界第3位(2020年当時)の国である日本が、経済活動によって排出される二酸化炭素によって進行する気候変動の責任が無い訳ではありませんし、世界全体の3.4%というのは決して小さくはありません。GDPのわりに二酸化炭素の排出量が少ない傾向はありますが、国民一人当たりの二酸化炭素の排出量というような指標を使うと日本は中国並みの数値です。
そのため、『人新世の「資本論」』が指摘する「気候変動において日本にも責任がある」という結論それ自体に異論はありません。異論はありませんが、そこに至るまでの議論がめちゃくちゃです。
ちなみに6番目以降にはEU諸国が数多く並んでおり、EUでまとめればアメリカに次ぐ排出量です。
これをその他の42.6%へ押し込むのは誠実なデータ提示とは言いがたいです。このようなデータを軽んじる議論の末に出てきた結論に妥当性があったとしても、それは一切の信用ができません。
また、『人新世の「資本論」』の特徴として「中国の不在」があります。上で引用したグラフからわかる通り、気候変動の議論で中国という巨大な二酸化炭素排出国の存在は無視できないものです。しかし、『人新世の「資本論」』の議論に中国はほとんど出てきません。「気候毛沢東主義」という用語の他には各国の新型コロナウイルス対策の比較で名前が出るだけです。邪推をすれば、『人新世の「資本論」』は旧来の南北対立の構造をほぼそのまま踏襲しているため、「搾取されるグローバルサウス」かつ「世界最大の二酸化炭素の排出国」という中国の存在は都合が悪かったのではないかと思います。グローバルサウスからの二酸化炭素の排出は「資本主義は外部へ問題を押し付けてる」というロジックで先進国の責任だと主張していますが、それで世界の1/3近くの排出量を説明するのは苦しいと思います。
ちなみに「気候毛沢東主義」という耳慣れない用語は、なんの留意もなく、そう書けば言いたいことは伝わるだろうというノリで使われるので、おそらくマルクス主義について勉強していると息をするように意味が掴めるのだと思います。『人新世の「資本論」』では、X軸に気候変動の脅威に対する不平等さ、Y軸に支配権力の強さを置いた二軸四分儀の図の中などに出てきます。
この図は『人新世の「資本論」』のあちこちに出てくる図で、数少ない中国の出番の新型コロナウイルスへの対応を比較している部分でも出てきます。そこでは、アメリカとブラジルが経済活動を優先して被害を拡大させたとして不平等かつ強権力の第一象限に分類され、ヨーロッパ諸国と中国がロックダウンなどの強力な権力の発動で感染拡大を抑え込んだとして平等かつ強権力の第二象限に分類しています。そして、『人新世の「資本論」』が目指すのは平等かつ弱権力の第三象限です(図と番号が違っていますが、四分儀の象限の順番は右上から反時計回りになるのが一般的なので図の方が変なことをしています。おそらく文系的なセンスで右から縦読みの順番で番号を振ったのではないでしょうか)。
新型コロナウイルスへの対応を比較ではこの二種類の国についてのみ言及されているのですが、ところで「仮に」ロックダウンなどの強力な権力を発動させずに、感染を広める人の動きをコントロールしてワクチンの実用化まで時間を稼ぎ、ワクチンの確保が出来次第広く国民へ接種を行って、超過死亡がマイナスになるほどに感染拡大を防止し、経済ダメージもEU諸国の平均以下に抑えた国が「仮に」あったとすれば、それは第一象限でも第二象限でも、もちろん第四象限でもない、平等かつ弱権力の、つまり『人新世の「資本論」』が目指す第三象限の理想を成し遂げた国と言えそうです。「仮に」そんな国があればの話ですが。皆さんはご存じでしょうか?
一旦オチが付いたところで、ここからは本文を個別に見ていきます。まず1章から3章にかけては気候変動の視点からの地球の現状と、資本主義が気候変動に対してうまく対抗できていないことが解説されます。結論ベースで見ていくと「それはそうだ」という主張がほとんどです。気候変動に真剣に取り組むのなら答えを用意しなければならない問題提起ばかりです。
『人新世の「資本論」』ではその答えを4章から説明していて、〈コモン〉という概念を使ってマルクス主義を再解釈し、それによって脱成長を成し遂げることを提案しています。
〈コモン〉とは、〈富〉とも表現される概念で、「社会的に人々に共有され、管理されるべき富」のことを指します。『人新世の「資本論」』では、〈コモン〉は「アメリカ型新自由主義とソ連型国有化の両方に対峙する「第三の道」を切り拓く鍵」だと言い、「市場原理主義のように、あらゆるものを商品化するのでもなく、かといって、ソ連型社会主義のように、あらゆるものの国有化を目指すものでもない」「第三の道として」、「水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理することを目指す」としています。これを先ほど説明したX軸に気候変動の脅威に対する不平等さ、Y軸に支配権力の強さを置いた二軸四分儀の図で説明しています。図を再掲します。
ここでいう「支配権力」には中央政府によるものだけではなく市場原理を通じた資本家による支配も含まれます。そのため「アメリカ型新自由主義」は不平等かつ強権力の第一象限に入ります。一方のソ連型社会主義は中央集権の強権力で平等を実現しようとするため第二象限に入ります。
1章から3章で見てきた通り現代の近代国家は気候変動に対して十分な対策ができているとは言えません。そのため、文明が気候変動を受け止めきれなくなり、崩壊する未来が想定できます。そうなった時には地球は野蛮な混沌、不平等かつ弱権力の第四象限へハードランディングします。それを回避して第三象限へ「第三の道」を進もうというのが〈コモン〉によって切り拓く〈コミュニズム〉です。
これは個人の感想ですが、私は「今までに行われてきた社会主義の実験はすべて失敗に終わったが、それは社会を一括で管理する独裁体制が招いた失敗で、市民自らが民主主義的に行えば上手くいく」という主張だと受け取りました。それはそうかもしれません。実験は尽くされていません。
さて、中央集権を回避して民主主義的に政治課題を解決していくにあたって一番の課題は合意の形成です。民主主義的な手続きにおいて、これを避けて通ることはできません。
徳山ダムというダムがあります。徳山ダムは濃尾平野を流れる木曽三川の一つに数えられる一級河川揖斐川の最上流部に位置する総貯水量6億6,000万立方メートルの超巨大ダムです。木曽三川は、濃尾平野という肥沃な大地を育む一方で、有史以来濃尾平野に洪水をもたらし続けた暴れ川です。その治水は濃尾平野のリーダーへ常に突きつけられた課題です。集落を丸ごと堤防を囲んでしまう「輪中」や手伝普請として薩摩藩の藩士が行った三川分流工事である宝歴治水は濃尾平野の小学生全員が学びます(たぶん)。
現代の治水においてダムは非常に強力な手段です。実際に徳山ダムも、2014年の台風11号が降らせた大雨による最大で毎秒約1,210立方メートルにもなる流入を、下流の横山ダムと連携してすべて貯留し、下流の大垣市内の揖斐川で2mもの水位低下に貢献しました。
しかしその一方でダムは大きな犠牲を強います。ダムを作るということはダム湖に沈む土地を作ること。すなわち住む土地を追われる人々を生み出します。徳山ダムも例外ではなく、ダムとそのダム湖の名前に残る徳山村の8集落のうち7集落が水没し、水没を免れる門入も危険区域に指定され、徳山村全村廃村という極大の犠牲のもとに徳山ダムはあります。
ダムに沈みゆく徳山村をカメラで記録し続けた大西暢夫という写真家がいます。その記録を元に映画『水になった村』を製作した他、『ホハレ峠 ダムに沈んだ徳山村百年の軌跡』という書籍を著しています。その中に「壊すことは簡単なことだ。しかし長く積み上げてきた年月は途方もないもので、一度壊したら元に戻すことはできない」という言葉が出てきます。まさにダム建設はそのような破壊を行う事業です。そこに住む人々の歴史を丸ごと水の底へ沈めてしまいます。そしてこれはダムがあれば防げるかもしれない洪水も同じです。洪水は人々の歴史を丸ごと水で押し流してしまいます。それもある日突然に。今自らの手でダムに沈む村の人々の歴史を壊すか、洪水で下流の人々の歴史が押し流されるのを見過ごすのか。ダムという選択肢がある治水はこのようなシビアな選択を迫られます。
「徳山ダムは本当に必要だったのか」。ダムが完成し、一定の治水効果が実証された今も議論はくすぶっています。特に利水機能については高度経済成長期に行われた需要予測に基づいており、実際に2000年には水余りが発生し愛知県、岐阜県、名古屋市が利水権の半分から2/3を返上するなど、過剰であったという指摘があります。これは訴訟にもなっていますが、「水需要の予測は将来を見越して計画を立てるので、その後変動が起こっても止むを得ない」として敗訴しています。
水需要の予測にはさらに洪水とは逆の渇水に備えたバッファも必要になってきます。東海地方では1994年、2000年、2005年などに渇水が発生しており、1994年には知多半島で1日19時間断水、2000年には揖斐川中流域で揖斐川の流水が途絶するなど深刻な事態となりました。この渇水対策は、環境破壊の代名詞となっているダムにおいて逆に環境改善につながるものです。揖斐川の流量が安定することによりアユの生息が可能になってきました。
「十数年に一度程度ありうる1日19時間の断水のために、他人を先祖代々の土地から追い出していいのか」という発想は当然あります。しかし、細長い半島という地理条件から水不足に常に悩まされた知多半島の人々にとっては、安定した利水は先祖からの悲願です。徳山村の人々が歴史をつないできたのと同じように、知多半島の人々も、洪水が発生する揖斐川下流域の人々も歴史をつないできました。『ホハレ峠 ダムに沈んだ徳山村百年の軌跡』では「ダムを造らない道があったはずだ」と書いていますが、それは簡単に見つかる道ではありませんし、見つけられない間も洪水や渇水は待ってくれません。
一度はダムに拠らない道を目指すも、それをあきらめた土地もあります。熊本県の人吉盆地です。人吉盆地は中心を流れる球磨川の流出先が九州山地の狭間の急峻な谷間になっており、増水した水が抜けずらい洪水に脆弱な地形になっています。1959年に球磨川本流の上流に市房ダムが完成しましたが、市房ダムの能力を上回る洪水はたびたび発生し、支流の川辺川にダムを建設する計画が持ち上がります。これが上記の徳山ダムと群馬県吾妻川の八ッ場ダムに並ぶ三大長期ダム計画の一つ、川辺川ダムです。
川辺川ダムは、建設予定地の相良村と五木村の補償問題は比較的早期に(それでも年単位の交渉の末に)妥結したのですが、こちらでは受益地からの反対運動により工事が停滞しました。全国的にダムへの風当たりが強い時代へ差し掛かり、利水や発電の需要も伸びることは期待できなくなりました。さらに治水についても、反対団体から「ダムが水害を招いた」という主張がでるなど、ダムのあらゆる機能について疑義が呈される事態となったためです。
そのような中で、建設地の一つの相良村は反対に転じましたが、ダムの補償を前提に政策を立案している五木村は建設を求め、受益自治体も人吉市などが反対する中、治水のためにダムを求める自治体も多く存在しました。単純な負担を負う側と恩恵を得る側にとどまらない複雑な構造を持ち、そして新たな地域対立の火種となることも懸念されました。このような背景のもと、2009年の民主党政権の「コンクリートから人へ」の号令の下、川辺川ダムの建設は中止されました。
こうして球磨川はダムによらない治水に舵を切ったのですが、治水案は多岐にわたる上に、それぞれ工期や費用はダム以上にもなるなど難しいものでした。また水系からのダム完全撤去というドラスティックな主張をする団体などもあり、治水計画がまとまらないまま令和2年7月の豪雨を迎えることとなりました。球磨川は氾濫し、人吉盆地に甚大な被害を与えました。これをうけて蒲島熊本県知事は川辺川ダム建設を選択肢に入れる方針転換を行い、結果として川辺川ダムは治水専用の流水ダム(穴あきダム)として2027年度着工予定となりました。
このように、民主主義的に合意を形成していくことは、時に大きな困難を伴う営みです。この難題に対して〈コミュニズム〉はどのような解答を出しているのでしょうか。探してみると、例えば、デトロイトの市街植樹を紹介している部分では「街中での野菜・果実栽培は、飢えた人に食料を供給するだけでなく、住民の農業や自然環境への関心を高める。実際、排気ガスまみれの果実など誰も食べたいとは思わないだろう。そうすると、大気汚染を減らすために、自転車道を増やそうとする動きが出てくる。それは自動車社会に抗して、住民が道路という〈コモン〉の潤沢さを取り戻すための一歩になる」と、合意の形成は関心を高めれば自ずとなされると主張しています。他にも「気候危機は真にグローバルな危機である。周辺部に転嫁できる公害と違って、究極的には、先進国であれ、この破壊的帰結から逃れることはできない。だとすれば、ここにあるのは、最悪の事態を避けるためにすべての人類が連帯できるかという試練である」と書いています。試練を乗り越えるために必要は「技術が奪ってしまった(脱成長が可能だという)想像力を取り戻す」です。つまり、合意の形成は関心を高めれば自ずとなされると主張しています。そのため『人新世の「資本論」』で語られるのは、気候変動を止めたい市民が、いかにして資本主義の枠組みで市民と地球を搾取する権力者に対抗するかという合意形成の一歩先の話ばかりです。『人新世の「資本論」』において市民は「気候変動を止めたいが権力者を前に諦めている市民」か「気候変動への無関心からその重要性に気付いていない市民」か、あるいは「打ち倒すべき権力者の手先」か、そのいずれかしかありません。このような単純な世界観を支えているのが、〈コモン〉の潤沢さを独占で奪うことで人工的に生み出した希少性によって利潤の無限増殖を目指すとされる絶対悪としての資本主義です。
この「人工的な希少性」という考え方は全て間違っているとは言い難いです。例えば高額で取引されるブランド品の価値は、もちろんそのブランドを裏付けする品質の価値も含まれますが、多くはブランドのロゴや刻印に価値が集中しています。しかし、それだけで全てを説明できるわけではありませんし、『人新世の「資本論」』の「人工的な希少性」に関する説明の中には事実誤認とまでは言わないにせよ、自説に都合の良いように事実を解釈しているような部分があります。
『人新世の「資本論」』ではマルムによる「人類の水力から石炭蒸気機関への移行は『マルサス主義』的な説明では説明できず、『化石資本』という考え方を導入すれば説明できる」という主張を採用しています。マルサス主義的な説明とは『人新世の「資本論」』では「経済拡大で資源が供給不足となり高騰し、それをインセンティブに新たな廉価な代替品が発明される」と説明されています。
マルムの主張をさらに詳しく調べてみると、ガーディアン紙がまとめたものがあります。
マルムは水力から蒸気機関への移行は「コストが理由ではない」と主張していますが、この文章に書いてあるように蒸気機関を動力とした工場の収益性が、水力を動力とした工場のそれよりも高いのだとしたら、蒸気機関への移行はコストが理由でしょう。あまりに「コスト」という概念を都合よく扱いすぎです。「既存のエネルギーの『コスト』が高騰すると、その高騰した『コスト』が代替品発明のインセンティブになる」という文脈で出てくる『コスト』を、エネルギー源そのものの原料費だけに厳密に限定されたコストであると解釈する道理はありません。
さらに重要なのが、水力はマルムや『人新世の「資本論」』が主張するような潤沢なものであるとは限らないことです。蒸気機関は炭鉱の坑内に湧出する地下水を汲み上げるために発明されたものです。蒸気機関以前は人や馬がその役目を負っていました。なぜ炭鉱では水力を使わなかったのでしょうか。答えは単純で、炭鉱のそばに都合よく大きな川のような水力が利用できる立地があるとは限らないからです。水力は、利用できる場所ではマルムや『人新世の「資本論」』が主張するような潤沢な〈コモン〉ですが、肝心の利用できる場所は水辺という特殊な立地に偏在しています。その中で工場に適した土地となるとさらに限られていきます。そして、水の流れは動力にだけ使うものではありません。大河を行く船は重要な交通手段であり、陸上の交通と船の接点となる港を設置できる場所は、陸地と川が接する水力の好適地でもあります。交通の接点と言うことは人と物が集まる重要な場所なので、昔から多く人が目を付けている場所であり、公共の場として管理されていることも多くあります。これはつまり土地の既得権益者が多いと言うことです。『人新世の「資本論」』では蒸気機関のことを「特定の場所にしか存在せず、それゆえに独占可能で、希少な資源をエネルギー源にする」と表現していましたが、これは水力にも当てはまる表現です。
『人新世の「資本論」』では水力は潤沢な〈コモン〉として扱われていますが、実際には前述の通り特定の場所に偏在する希少な資源という側面もあります。〈コモン〉は、資本主義が依存するとしている「外部性」と対をなす〈コミュニズム〉の根幹ですが、資本主義が外部性を食い潰すのなら、(その速度は違うのかもしれませんが)〈コミュニズム〉も〈コモン〉の潤沢さが枯渇することが想定できます。〈コモン〉の自然な枯渇については、通読した限りでは『人新世の「資本論」』で言及はありませんでした。〈コミュニズム〉によって民主主義的に管理すれば枯渇することはないと言うことでしょうか。そうだとしたらあまりに甘い見通しです。
例えば、日本の漁師は〈コモン〉である海の魚を、獲れる時に獲れるだけ獲る習性を持っています。市場原理を考えれば、豊漁の時は魚の価格が下がるため、無理に漁へ出る必要はありません。原油のように生産調整をして価格を維持する方が、将来的な資源維持にも繋がってあらゆるスパンで漁師が得をします。それでも日本の漁師は魚が獲れる時に獲れるだけ獲ります。日本政府がいくら漁業資源の保護育成を啓蒙しても日本の漁師は魚が獲れる時に獲れるだけ獲り続けています。この不可解な行動の原因を資本主義に見出だすことは難しいです。前述の通り市場原理から見た最適解の正反対であるため、資本主義サイドから見ても不可解です。
この例はかなり特殊なものですが〈コモン〉の枯渇はもっと単純な構造からも発生します。例えば誰でも採って良い果樹園に、実っている果実の数よりも多い人が収穫にやって来たら、その〈コモン〉の果樹園は潤沢さを失います。果樹園も水力を得るための水車を設置できる水場も、物理的な上限が存在します。〈コモン〉の枯渇を放置すれば人々による奪い合いが発生し、〈コミュニズム〉は第四象限へ転落します。しかし、潤沢さを維持するために、利用のルールや人口の制限、それらを破った者への(フランスの市民会議で提案された環境破壊罪のような)刑罰などで管理しようとすれば、〈コミュニズム〉は権力性を強めてじわじわと第二象限へ近付いていきます。
他にも、『人新世の「資本論」』では新型コロナウイルスのワクチンは〈コモン〉であるべきと主張しています。しかし、新型コロナウイルスのワクチンは流行が進行してから開発された新薬であるため、枯渇状態から生産で積み上げていく必要があります。こちらに関しては〈コミュニズム〉のもう一つの理論の柱である「開放的技術」の文脈で解釈すべきかもしれません。
「開放的技術」とはフランスのマルクス主義者であるアンドレ・ゴルツが導入した概念で「閉鎖的技術」と対になるものです。この時点でもうかなり「ムラ」の気配がしていますが、レッテル貼りは議論ではないので主張を読み進めていきます。『人新世の「資本論」』によれば、「開放的技術」とは「コミュニケーション、協業、他者との交流を促進する」技術であり、対して「閉鎖的技術」は「人々を分断し」「利用者を奴隷化し」「生産物ならびにサービスの供給を独占する」技術であると言います。そして、「閉鎖的技術」の代表例として原子力発電を挙げています。曰く、「原子力発電はセキュリティ上の問題から、一般の人々から隔離され、その情報も秘密裏に管理されなくてはならない。そのことは隠蔽体質につながり、重大な事故を招いてしまう」。レッテル貼りは議論ではないので主張のおかしなところをちゃんと指摘していきましょう。
まず「原子力発電はセキュリティ上の問題から、一般の人々から隔離され」の部分はおおむね事実に即しています。問題はその次の「その情報も秘密裏に管理されなくてはならない」の部分です。現代において原子力発電所を運用するには国際原子力機関による査察を定期的に受ける必要があり、青森県の六ヶ所村の使用済み核燃料処分場などのように常時の監視を受ける施設もあります。国際原子力機関は国際連合の保護下にある自治機関で154の国が加盟しています。加盟国全てが参加する総会の他に、13の指定理事国と22の選任理事国からなる理事会と、実務を行う事務局が存在します。22の選任理事国の選出は地域毎に割り当てられた枠が存在し、南アメリカ5カ国、西ヨーロッパ4カ国、東ヨーロッパ3カ国、アフリカ4カ国、中東アジア2カ国、東南アジア・オセアニア1カ国、極東1カ国の20カ国の地域選出に加えて、アフリカ・中東アジア・東南アジア・オセアニアから持ち回りで1カ国と中東アジア・東南アジア・オセアニア・極東から持ち回りで1カ国の2カ国の付加選出からなります。半分以上がいわゆるグローバルサウスに分類される地域であり、指定理事国の中にも中華人民共和国、インド、南アフリカ、アルゼンチンといったグローバルサウスに分類される国が理事国に指定されています。このような体制の下で、世界各国の原子力発電所は白日の下へさらけ出されているというのが実情です。例えば、福島第一原子力発電所から放出されたALPS処理水は国際原子力機関のスタッフがサンプルを採取して調査を行っており、その結果国際的な基準値を下回ったことがwebページ上で広く報告されています。これのどこが「秘密裏に管理」なのでしょうか。
続く「隠蔽体質」というのは、おそらく東京電力のトラブル隠し問題などを念頭に置いたものでしょう。東京電力のトラブル隠しは軽微な瑕疵を報告していないという特徴があります。「隠しやすいものを隠している」という見方もできますが、当事者の抗弁も聞いてみましょう。当時の東京電力の社長の南直哉社長が自身の辞任記者会見にて「言い訳になってしまうが、どんな小さな傷もあってはならないという基準が、実態に合っていない。」と述べています。堅牢に作られる原子炉と言えども運用していくうちに、安全上は問題ない小さなしかし間違いなく傷ではある傷はできていきます。それらを安全な範囲で許容するような「維持基準」を設けている国もありますが、日本は当時「維持基準」は未策定でした。
なぜ「維持基準」が定められていなかったのか。それを明らかにする関係者の証言を紹介している研究ノートがあります。
同じノートで、原子力に関する世論調査から、原子力への風当たりの強まりと、トラブル隠しが始まった時期がほぼ一致することが示されています。そこから「1980 年代後半に原子力発電の推進について反対が賛成を上回るほど世論の厳しさが増すなかで,世論の非難を恐れて軽微な故障や不祥事を秘匿するという負の循環が生じやすくなっていたといえる.」とこのノートでは結論付けています。
この「負の循環」は原子力発電の特性によるものではないでしょう。卑近な例で言えば、ミスの多い部下への締め付けを強めた結果、何も報告が上がってこなくなったような話です。技術が閉鎖的になるのは、原子力発電が閉鎖的な技術だからでもなく、専門家が権力者と結託して技術を閉鎖しているのでもなく、専門家と市民との間の信頼関係が失われているからです。そもそも〈コミュニズム〉の例として『人新世の「資本論」』で称賛されている市民会議を開催したフランスは、電力の75%を原子力発電で賄う原子力大国です。最先端の「民主主義」を世界に先駆けて実行できる国で「民主主義的な管理に馴染まない」原子力発電が大々的に用いられているわけがありません。
問題はまたもや合意の形成へ戻ってきましたが、『人新世の「資本論」』という本の立ち位置を解釈し直すと、合意の形成を取り扱わないことに意味が出てきそうです。キーとなるのは3.5%という数字です。この数字は『人新世の「資本論」』が紹介しているもので、人口の3.5%が不服従の抗議を始めると社会の変革が始まるという経験則的な数字です。ここまで見てきたように〈コミュニズム〉は支える理論に疑問がある一方で、「人工的な希少性」という概念は資本主義の歪みのある一面を照らし出すものであることは確かですし、「閉鎖的技術」という概念も専門家と市民の間の相互不信の一側面を指摘するものです。つまり、社会変革の先の社会を支える理論にはなり得ないが、人口の3.5%まで問題を盛り上げるポテンシャルはあるのではないかと思います。
この構造は、経営コンサルタントの倉本圭造が著書の「日本人のための議論と対話の教科書」などで示している「滑走路段階」と「飛行段階」の図と同じです。3.5%は飛行機で例えるのなら離陸決心速度V1です。
問題は気候変動対策が「滑走路段階」なのか「飛行段階」なのかです。気候変動は国際的な課題と認識され京都議定書やパリ協定といった国際的な取り決めによって各国が対策を行ってきてきます。このような点では気候変動対策は「飛行段階」だと言えます。しかし、『人新世の「資本論」』が提起するのは「現状の国際的な取り決めでは不十分ではないか」という議論です。この点に関しては『人新世の「資本論」』は一定の理があります。そうなると、気候変動の問題はまだまだ「滑走路段階」であり、『人新世の「資本論」』の意義はまだ残っているように思います。
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