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何かを書くためには、それ以上のインプットが必要

言葉は、どんどん短くなっていく。

動画、画像、視覚的情報でのやりとりがここまで簡単に、自由にできるようになった。その結果、長い文章は読まれないと言われ、短い言葉でどれだけ思いを伝えることができるかが、重要視されるようになってきた。無駄が削られ贅肉が削ぎ落とされた簡潔なものが好まれる。

意識的に、文章を取り入れていかないと、一日で出会う言葉はひょっとしたら、原稿用紙一枚にも満たないかもしれない。

また、すぐに伝わらない言葉も嫌煙される。なかなか理解ができない、理解するまでに、調べるワードが必要だったりすると、読む人の頭の中にノイズが生まれる。

いわば、滑り台をどれだけ鋭角にするかに努めてきた。

ただ、滑り台を滑り続けることはできない。どこかで一度、上まで登る必要がある。(どちらが滑ることで、どちらが登ることに値するのだろう?滑ることがアウトプットのような感覚があるから文章を書くことに値し、登ることが読むことに値すると考えている。)

以前、noteの毎日更新を宣言して投稿していた時があった。
そのうち、書くことがなくなり、筆が進まなくなり、やめてしまった。
つい三ヶ月前の出来事。

最近、運営しているAlgrnonというブランドのinstagramの更新に力を入れていて、あまり本を読まない時期があった。画像でのインプットが多くなる。いつも電車での移動で本を読んでいたから、それが減ってしまい、自動的に読む時間が減ってきた。

たまには小説の世界に浸かりたいな。そう思って、小説を二冊買った。いつぶりだろう。これがつい2、3週間前のことだと思う。それから、ツンドク(読まずに積んだままにしてある本たち)していた本を手にとって読む機会が増えた。すると書きたいことが出てきて、またnoteを更新するようになった。今は、毎日更新すると決めている訳ではないが、今の時点では6日間自然と続いている。今思えば、何かを書くことが億劫になっていた時は、読むことが足りなかったのだと思う。

何かを学んだり、テクニックを暴くことを意識する必要はなく、文章を自分の中に流して行くような感覚で、読み続けて行くこと。
文章を書くとは、一つの能力のようなもので、頭で考えたことを言葉にすることは誰にもできることではないし、それを正確に行うことはもっと難しい。

そして、その表現はなんとなく読んだ文章に影響されている気がする。読んでいる文章と文調が似ていたりする。そう思うと、どんな文章を書けるかは読んだ文章に比例するとも言えそうだ。

今はこうして、文章を書くことを楽しいと思っている。以前にはなかった感情だ。文章を読むことで。階段を登って行く。景色がいいところまで出ると、その光景を表現してみたくなる。そんな湧き上がるような気持ちで文章を書くことは幸せなことでもある。

もし私のように、もともと出来事や感情を文章に起こすことが得意だったのに、何かを書くことが億劫に感じている人がいるとすれば、たくさんの本を読んでみて。きっと湧き上がるようなエネルギーを感じるはずだから。

いただいたサポートは、花と民芸の表現の追求にあてさせていただきます。